2013年6月22日土曜日

無私のすすめ-大局観を持つ

日本維新の会の立候補取りやめが止まらない。
橋下共同代表の従軍慰安婦発言に端を発する影響が続いており、6月21日現在で立候補辞退が5人目となった。

ここでは橋下氏の発言に関する一連の騒動について触れたいと思っている訳でなく、異なったアングルから考察してみたいと思う。

今、日本維新の会で起こっていることは何に対する騒動なのだろう?何処に向かっているのだろう?と考えてみた。

まず、一連の騒動に対して両代表が衝突していること。オスプレイを伊丹で受け入れるという突然の発言が起こったこと。この騒動で立候補辞退者が相次いでいること。

全ての騒動は何故起こったのか?少なくとも日本維新の会の政治理念とは関係のない、短期的な損得のためのように思えてならない。
すなわち、明日の都議選、7月の参院選における得票数だけに着目しているからではないだろうか?


もちろん、政党である以上、選挙に勝たなくては政治理念を実現することは出来ない。しかし、目の前の選挙にだけ焦点を当てるのが政治というわけではない筈だ。

これまで橋下氏が行ってきた活動、そのアプローチは、一定の支持をされ、国民からも期待を持たれていたことは間違いがない。
ゼロから始めた政治活動が、50名を超える議員を擁する政党になった事実を見れば、このことに議論の余地はないだろう。


しかし、今起こっていることは、それに比べれば大局を見ているとは言い難いのではないか?
政党の代表の発言として真に国を考えた発言なのか?
国民の気持ちを考えた発言なのか?と考えると、党内と選挙に視点が偏っているように見える。



視点が偏っていると感じる意味では、安倍首相の田中均元外務審議官に対する発言問題での、細野氏とのバトルも構造的には同じ問題だと思う。

Twitter上での発信とはいえ、一国の首相という立場の人間が、個人批判のような発言をしている。
視座が低いのでは?という疑問は拭えない。

人は何故、批判に対して最初に自らを擁護する発言をしてしまうのだろう?
それが、公党の党首、一国の首相という立場でも変わらないようだ。


一方、アメリカでは次期FBI長官に、ブッシュ前政権で司法副長官を務めたジェームズ・コミー氏を指名したというニュースが報じられた。

民主党の大統領が、共和党の前政権の司法副長官をFBIの次期長官に指名したのである。

もちろん、オバマ大統領とて聖人君子ではない。現在起こっている個人情報収集問題PRISMに対する対応という側面はあるだろう。

しかし、オバマ大統領には他にも選択肢はあった筈で、党内もしくは共和党関係者以外から選ぶことも出来ただろう。

コミ-氏は、司法副長官時代に、国家安全保障局(NSA)が当時行っていた、
令状なしの盗聴に対して職を賭して反対した人物である。

難しい要職であるFBI長官という職責に対して、反骨精神の人であるコミ-氏がどう挑むのか。
国民に期待を抱かせる、言わばウルトラCの超党派の人選であると言って差し支えないだろう。


着目すべきは何故、オバマ大統領はこのような発想が出来たのか?ということだ。

それは、一旦同心円の視点から視座を変えて、大局的にこの問題を捉えたのだと思う。
日本でも超党派、是々非々の議論が必要だ、という主張があまたあるが、実現できないのは真に大局をみて判断しないからに他ならない。

能力の差ではないと思う。
無私の境地に一旦たてば、おのずと見えてくる発想だと思う。
国をリードする立場の人間であれば、まず無私になって考えて欲しいのだ。

何か起こった時に、議論の出発点を間違えると、どれほど能力のある人材でもその目は曇ることがある。苦しい状況は誰にでも訪れるが、その時に無私になれるか否かで取れる選択肢は大きく変わる。

国をリードする立場の人々には、自らの立場を擁護する前に、無私になって国益という大局的な観点で発想をすることを切に望みたい。

2013年6月21日金曜日

基準の功罪-理解して活用する

来る6月23日に天体ショーが見られるかもしれない。スーパームーンと呼ばれる現象で、天候さえ許せば、普段より大きさで14%、明るさで30%程度違った月を見られるようだ。

このスーパームーン、簡単に言えば月が最も地球に近づく時に満月、若しくは新月(今回満月を取り上げた)が重なることで起こる現象である。そう聞くと、一定の周期で見られそうだが、実際には少し様子が異なるようだ。

実は、ネットを検索すると、何がスーパームーンなのかが良く解らない。興味が湧いたので少し調べてみた。

どうやら、その精度を粗くみた(”概ね”満月で良いとした)場合、約410日前後に一度スーパームーン現象が起こるが、厳密にみると、その発生周期は5年から19年程度に伸び、周期自体複雑になるようだ。


月の満ち欠けは、太陽と月の位置により変化し、地球からみて同じ方向になると新月、正反対の状態で満月となり、新月から次の新月までの期間は≒29.531日である。

理論的に、「満月」とは、地球から輝いて見える部分の変化360度分を、28に換算して求める「月相」で表現した際、月相=14(180度)になる状態のことを言う。


一方、月の公転周期は27.32日だが、その軌道は楕円のため、地球との距離は一定ではない。

地球に最もに近づく時を「近地点」と言い、その距離約35万6400キロ、反対に最も離れる時を「遠地点」と言い、地球からの距離は約40万6700キロ、その差およそ5万キロである。


実際には、「満月」という定義も曖昧で、月齢(新月から次の新月までの日数≒30日)13.8日から15.8日をさし、範囲があること、太陽の引力の影響により、近地点にある月が次の近地点に到達する周期は、27.5日となりずれが生じるなどから、基準とその精度をどの程度厳密にみるかによって結果は大きく変わる。ということが解ってきた。

これだけ条件が違っていながら、実際に見える「満月」の大きさ、明るさは、肉眼では確認できない程度の差異に留まるのが実情だ。



と頭を巡らせてみたときに、現代社会における基準も実は同じような側面を持っていると感じた。

国やビジネス、スポーツ、教育、テクノロジーなど、「基準」は様々な分野で活用されており、必要且つ重要なものだが、上記と同様に定義の精度によって結果が大きく変わることを理解して活用しなくてはならないことを、改めて認識できたように思う。


例えば、海沿いの原発に対する防波堤の高さの基準を考える場合、巨大地震などの天災の発生頻度は高くないものの、影響度は甚大で、現に福島はいまだ終息していないことを考慮すれば万が一に備え、保守的で精密であるべきだろう。

一方、人を動機付けするための評価基準は、あまりに精度が高すぎれば、鼓舞する機会は事実上なくなる可能性が高く、寧ろ積極的にやる気を醸成させたい組織においては、その精度は粗い=褒める機会が多い方が結果的には活性化する。


つまり、基準とは目的に応じてその功罪を理解した上で、しっかりと活用すべきものであり、一旦決めたものだからと盲目的になるのは本末転倒なのである。

また基準は、当初仮説に基づいて策定される。仮説である以上検証は適宜行われるべきである。
寧ろ、前向きに現在のもので本当に目的は達成できるのか?と確認することが重要だ。


可能な限り被害を食い止めるための基準なのか、一歩でも前に進めるための基準なのかその本質を見定め、真摯に運用されることを望みたい。


上記の観点から言えば、スーパームーンはリベラルな基準にして、毎年楽しめる方が忙しい毎日の一服の清涼剤になるのではないだろうか?

日曜日の夜8時32分ごろ、晴れていたら夜空を眺めてはいかがだろうか?

2013年6月16日日曜日

温故知新-百貨店動向をみて

6月13日に、大阪阿倍野に「あべのハルカス近鉄本店のタワー館」がOpenした。
来年のグランドオープン時、全てが完成すれば地上300メートル、売り場面積10万㎡の堂々たる複合施設となる。

近鉄百貨店のコンセプトは”モノ・コト・ヒトとの出会いが暮らしを彩る「街のような場」”で、オープン当日のニュース番組での店長のコメントは「テーマパークのような存在」を目指すとこのことだった。

この意味するところ、昔の百貨店がそうであったように、百貨店に行く事がひとつのイベントになるような場所を復活させたいという願いのようだ。

東では、今年3月にグランドオープンした、新宿伊勢丹もリモデル後の正面玄関は80年前のものに戻し、コンセプトは「世界最高のファッションミュージアム」。
90年代にも「解放区」というコンセプトで伊勢丹らしさを提案していたが、今回リモデルにあたって「東京解放区」というコンセプトを復活させている。

ある意味、盛況だった頃の百貨店を再現するために、今の旬のコンセプトをはっきり打ち出してゆくということの現れだと思う。まさに「温故知新」

では、最近の百貨店は、どのように見られていたのだろうか?

多くの店舗が建つが、正直どの百貨店に行ってもあまり変わり映えがせず、同じようなブランド、同じような専門店が出店し、隣接する地域にひしめき合って立ち並んでいるだけではなかっただろうか?

低迷が続いて久しい百貨店業界だが、各社の中期目標などをみると大規模投資をして目指す先は、昔の百貨店の位置づけ、
すなわち、行きたい場所、行く事がイベントになる場所、一日滞在する場所のようだ。

では、いつから行きたい場所、特別な場所で無くなったのだろう?

そんな疑問を巡らせていたら、昨年プライベートで旅行をしたヨルダンを思い出した。
シリアの内戦の煽りを受け、大量の難民がヨルダンに押し寄せているのだが、寧ろ積極的に受け入れている。

その受け入れの仕方が、難民に対するリスペクト(尊敬)を感じさせる内容で、とても素晴らしいものであった。

普通災害等で難民になった人々に対する救援の殆どは、寝泊りする場所、食事の提供を行うことがメインになる。我が国における震災後の被災者支援も同様だ。

ただ、その多くは場所はともかく、食事については支援者が作って配るという方法か、出来合いのレトルトやインスタント食品を配給するというものだ。
2,3日であればとても助かるが、長期になったらどうであろう?

いつしか、配ってくれるのが当たりまえ、何故今日は遅いのか?という発想になり、遅れに対する不満、苦情が大きくなるものだ。



しかし、ヨルダンのそれは違っていた。そもそも配給はしないし、作ったものを配らない。配給するのは調理できる場所と、食材をスーパー等で交換できる引換券なのだ。

この2つの方法、何が大きく違うのか?
ヨルダンが採った方法では、難民の人々は、自分たちで創意工夫して1か月間を考えながら、献立し、食材も選び、自分たちでライフスタイルを確立できる。
翻って、前者は上記のように、いつしか支援してもらうのが当たり前で、それを待つ集団になってしまい、スケジュールも配給に合わせる毎日になってしまうのではないだろうか。

誰にも悪意があるわけではない。純粋に良かれと思ってのことだろう。

違いは支援に対する考え方と、相手に対する真の意味での尊敬の念を持つか否かである。
ヨルダンの難民政策では、おんぶにだっこのような政策をするのは本質的には失礼で、尊厳のある民族ならば、小さくても自由を与えることが、重要だと考えているのだ。

更に言えば、地域のスーパーも潤う。その引換券を政府に出せば現金に換えられる。いわばWin-winの関係である。素晴らしい方法だと感じた。

話をもとに戻すが、低迷期の百貨店が単なる「場貸し業」ではなく、全ての店舗において、本当に特徴を出し、どのようなお客様にどのような差別化した価値を提供出来るのかを真摯に考えてきたのだろうか?

出店するブランド、専門店と侃々諤々の議論を行い、選定してきたのか?という疑問はやはり残る。

行きたい場所にするのなら、競合はXX百貨店ではなく、ディズニーランドや、人気のリゾート地かもしれない。仮にそうだとすれば、場所の使い方はこれまでと同じで良いのか?店の作り方、人の流れ、滞留時間の考え方、必要な施設は?

まだまだ出来ることは沢山あると思う。
いや、寧ろ手つかず、未検討の領域が山ほどあるのではないだろうか?

大規模投資を次々に行っている百貨店に、単なる場所の提供をするという発想ではなく、来て頂くお客様に充実した時間を提供する、
「行きたい場所」、「憧れの場所」に出来るよう大いに切磋琢磨しながら、驚くような変革を成し遂げてもらいたい。

素晴らしい場の出現を楽しみに、生まれ戻った(?)百貨店のお手並みを拝見したい。


2013年6月14日金曜日

トップの責任を考える-統一球隠ぺい問題

NPB(日本野球機構)コミッショナーの謝罪会見をみて感じたことは、トップとは一体どのような役割なのか?どのような責任を負っている存在なのか?という疑問だ。

今、話題になっている統一球仕様変更の隠ぺい騒動だが、加藤コミッショナーは、「知らなかった」「これは不祥事ではない」という発言に終始した。
これが、企業であればどうであろう?これだけ大きな問題を起こした会社のトップ-この場合該当する立場としては、CEO(最高経営責任者)だ-が会見で、私は知らなかったと発言するのだろうか?

そもそも何の釈明なのだろう?「私は潔白です」という趣旨の発言をして何の意味があるのか?
どのような責任を取ったことになるのか?甚だ疑問だ。
問題は、知っていたか否かではない筈だ。メディアからの自身の進退に関する質問に対しても、「辞めずにガバナンスを強化する」という趣旨の発言をしているが、それは全くあべこべで、正に”本末転倒”と言わざるを得ない。

そもそもコミッショナーとは何をする立場なのかを検証してみよう。
日本プロフェッショナル野球協約2011(公開されている最新版)の第2章はコミッショナーの章だ。
同第8条に、職権および職務が記載されており、抄訳するとコミッショナーは日本プロフェッショナル野球組織の代表で、野球協約に反する事実がある場合、自らの名において制裁を科すことができる立場なのだ。また、コミッショナーが下す指令、裁定、裁決および制裁は最終決定であり、全ての関係者は従わなくてはならない。とある

改めて考えてみよう。上記の観点でいえば、今回のような不祥事が起こらないよう管理監督の最高責任を初めから負っている筈で、現在のガバナンスに問題があると考えているなら、それは取りも直さず自らの管理能力の欠如を明らかにしているに他ならない。

統一球を変更するのであれば、正式な手続きのもと、関係当事者に向け変更を明らかにすれば済む話だった。にも関わらず、妥当な理由もなく言わば組織で隠ぺいし、納入業者にも嘘をつかせ、プロ野球選手会も完全に蚊帳の外で欺かれ、ファンに対しても騙し討ちをしたことになる。

このような事態にならないために、管理監督機能としてコミッショナーという役割があったわけで、仮に知らなかったとしても、会見までに事の真偽を最高責任者として糺すべき立場であり、私は知らなかったという発言は見当はずれな発言で、職務怠慢というべきものであろう。

つまり、野球機構はファン、選手を裏切り、納入業者も無理やり巻き込み、協約違反と報告義務違反を犯し、更に隠ぺいした。それを取り締まる筈のコミッショナーは知らされなかっただけに留まらず、その後の処理でろくに調べもせずに、「不祥事ではない」という発言をする無能ぶりを露呈したというのが顛末だろう。

しかも、シーズン約1/3を消化したこの時期に、おまけにこの会見はナイトゲームが行われている最中でどこまでプロ野球ファン、選手を愚弄すれば気が済むのかと呆れるばかりだ。

上述の協約でわかる通り、コミッショナーは絶大なる権力を持っている最高責任者だ。

それを踏まえれば、事前に知らされていなかった事実は言及したにせよ、その一切の責任は自らの管理能力の無さにあり、不徳の致すところであることを認めることが出発点であろう。

すべき行動は全力をあげて全貌を明らかにするとともに、何故起こったかの本質的な原因を明確に究明し、再発防止策を速やかに策定した後、全責任を取り職を辞するとともに、後任にしっかりと引き継ぎを行うことこそ、トップの果たすべき役割だと考える。

日本相撲協会、全柔連と合わせ戦後日本に君臨した大団体が、相次いで不祥事を起こしていることは決して偶然ではない。目標を失った嘗ての功労者にいわば「上がり」のポストを政治的に提供した報いが一気に噴き出しているのだと思う。

本日、新たな動きがあるようだが保身を図るのでなく、プロ野球のトップとして相応しい行動をすることで範を示して欲しい。そしてそこから、日本の体質改善の第一歩を踏む大きなチャンスにできるような崇高な立ち居振る舞いを期待したい。






2013年6月8日土曜日

意志力-日本人が忘れたもの

本田が吠えた。ワールドカップ決勝進出を決めた翌日の記者会見の出来事。
要約すれば、決勝進出に浮かれ気分だった会見を、もっと全員が「個の力」を鍛えよという発言で引き締めたものだった。あのニュースを見た日本人は多かったことと思うが、視聴者はどのように感じたのだろうか?

私は、本田の危機感、ワールドカップ優勝を目指す飽くなき闘争心、意志力を感じた。
残念ながら私はサッカーに詳しいわけでない。しかし、その私があの試合をみていて最も感じたことはフラストレーションだった。

本田の言葉を借りれば、ここ一番での「個の力」競り勝つという気持ちが足らなかったのではないか?という印象を受けた。素人的な感覚では、あと1,2点採っていて何の不思議もない試合だったように思うからだ。

もちろん、全員が足らなかったわけではない。世界で活躍している何名かの選手は本田の意味するところが解っていたように思う。粘り強さ、気力が違ったように思う。ここ一番、あと数分というときに物を言うのは、スキルではない。意志力である。その意味では試合を通じて物足りなさを感じたのは私だけだろうか?

実は、そのフラストレーションを最も感じていたのは、誰あろう本田自身だったと確信する。
だからこそ、終盤で吠えたり、最後PKを当たり前のように蹴ったのだと思う。本田自身何度か歯痒いプレーをしてしまった。だが、それで引き下がらないのが本田という選手だ。
今の日本に、どれほど本田のようなメンタリティを持った人間がいるだろうか?

間違い、失敗は決して恥ずかしいことではない。だが、それを挽回しに行かないことはどうだろうか?人間変わることは一瞬で出来る。誰でもできる。出来ないのはそれを継続することだ。
継続こそ、意志力に他ならない。ワールドカップ決勝では、全ての選手の素晴らしい意志力を楽しみにしたい。