2014年7月6日日曜日

変えるべきものは何か?-集団的自衛権論議を検証する

201471日、安倍政権は巨船「日本丸」の舵を大きくきった。


戦後一貫して保ってきた武力行使の放棄について、憲法解釈(?)の変更という形で、実質的に武力行使の可能性を否定しない運用の閣議決定を行った。

そこで、今日は憲法とは何か?閣議決定とはどのような位置づけのものか?為政者(統治者、政治家)とはどのような存在か?について、原理原則を少し考えてみたい。


まず、憲法とはそもそもどのようなものか?一言で言えば「国の形を決めるもの」、すなわち、統治者(為政者)は憲法に従って、その権力を行使する(=立憲主義)ことが基本原則である。

この基本原則から言えば、為政者(政治を行う者)の活動は憲法によって規制されているのである。

有体に言えば、時の権力者(政治家)が勝手なことが出来ないように、しっかりと憲法が国の形を決めている。ということであり、その逆では決してないということだ。


次に閣議決定を大辞林で確認してみた。閣議決定とは、実務上行われている内閣の意思決定の一形式であり、憲法または法令に定められた法律案・政令・予算など内閣の職務権限として明示された事項、および他の重要な事項について行われる。

すなわち、閣議決定で憲法の解釈を変えるというのは、道義的にみて明らかな矛盾となる。

常識的に考えて、暴走を抑制する効果を狙ったものを、執行当事者自らの解釈で運用を変更できるのであれば、憲法の存在意義は薄れてしまう。


では、最後に為政者とは本来どのような存在なのか?

そもそも、閣議決定のメンバーは、首相をはじめとする閣僚である。その閣僚は、首相が任命権をもっており、首相自身は国会議員の首相指名にて決定される。

つまり、閣僚も首相もその人事は国民の手が直接届かないものであり、今回の閣議決定は、そこで選ばれたメンバーが、本来国民に負託されるべき憲法改正(内閣にて発議し、両院の23以上の賛成を経て、国民投票の結果多数となった場合に改憲となる)の領域を、解釈変更という玉虫色のプロセスで侵していることになりはしないだろうか?



TVの街頭インタビューでこの解釈変更の是非を問うていた(そもそも問うべき内容が妥当なのか甚だ疑問ではある)が、印象に残る回答があった。
曰く「閣議決定には反対だけど、選挙では自民党に投票してしまった。だから投票した自分たちの責任だ」と。

恐らく、大多数の国民は、これは憲法の改正に当たる変更ではないか?との疑いを持っているものと思われる。本来であれば公正な手続きのもと、堂々と議論を尽くし、その結果を国民投票にかけるべきなのではないか?



私は、集団的自衛権の是非を問うために疑義を呈しているのではない。70年近く武力行使は行わないというスタンスを守ってきた国が、突然、場合によっては武力行使も辞さない国に変わる。

それは、国民の民意を明確に問うことなく、たかが一内閣の閣議決定で行える事柄なのかを問題視している。


日本には憲法改正のプロセスが上記の通り存在する。しっかりと議論をし、国民に納得のゆく手順を適切・透明に行った上で、賛成多数で改正すれば良い。

法治国家である以上、決められた手続きに従い、公正に議論し決定するのが当然で、政治家はそれを遵守し、代議することを国民から負託されている存在の筈。


重要性、影響力から考えても、超A級の重要事項であることは間違いない。その改正手続きを、首相、閣僚が抜け道を探すように行うことがこの国の将来にとって良い選択だとは決して思えない。


我々に出来る前向きな行動として、自ら選んでしまった政治家を嘆くより、国民一人一人が、もっとこの国の将来を真剣に考えることへ自らを変える切っ掛けにしたいものだ。