2014年12月2日火曜日

衆議院選挙を考える-原発問題の捉え方

いよいよ、候補者の公示がされ、本格的に選挙戦がスタートした。ムーディーズの格下げが発表され、ますますアベノミクスに対する?が顕在化している中、今日は先日のお約束の通り、原発問題をどう考えれば良いかについて整理してみたい。


まず、現在の議論に関する違和感から述べてみたい。


何故、全面停止か全面再稼働の二者択一なのだろうか?


この問題は、我が国のエネルギー政策をどのように考えるか?という大局的な視野に立って考えるべき問題である。

更に言えば我が国1国だけをみて考えるべき問題なのかを確認する必要はないだろうか?


我が国のエネルギー消費の状況から整理すると、エネルギーの消費量は2004年をピークに漸減しており、現在はピーク時の約9割の消費量である。

これは主に製造業の消費量が74年をピークに約4割改善したのをはじめ、車の燃費が96年をピークに74%改善、エアコンでも2001年をピークに3割改善などのテクノロジーの進化により、消費量が減ってきているためである。

また、少子高齢化もあいまって、消費全体は今後更に下落する見込みなのである。


エネルギー源別でみると、石油、石炭、天然ガスでほぼ9割以上を供給しており、水力および、太陽光、風力、地熱、太陽熱、バイオマスといった再生可能エネルギーはまだ微々たる量である。


IEAの統計でエネルギーの自給率を見みると、2010年(震災前)では19.9%で世界29位(原子力が15%寄与していたため)だったものが、2012年では6%で33位に落ち込んでいる。

つまり、ほとんどのエネルギーを輸入に頼っているのが実情で、OPECがダブついている原油に対して減産すれば、たちまち原油価格は上がり、原発停止の影響でただでさえ上昇しているエネルギーコストは一気に跳ね上がる危険をはらんでいる。

昨今では、ISIS(イスラム国)の侵攻による占領地域が拡大すれば、石油が安定的に供給されなくなる可能性も考えられる。


一方、世界のエネルギー需要をみると、横ばいもしくは漸減という傾向は先進国ではほぼ同じであるが、反対に中国、インド、OECD非加盟国のアジア地域の各国の伸びが大きく、世界全体での需要は2000年当時の1.3倍強、20年後の予想は更に現在の1.3倍という試算がIEAにより発表されている。



上記内容から言えることは、化石燃料の占める割合がかなり高く、昨今の世界情勢からみてコストと安定供給という2点から捉えると、我が国のエネルギー事情はリスクが高い状態が相対的に上昇していることは否めない。



次に原発の安全性を検証してみたい。
最初に申し上げておくと、安全性という考え方には大きく2つの要素がある。
1つは如何にして災害を未然に防ぐか?ということで、もう一つは実際に災害が発生した場合、どのように対処するか?という運用面でのポイントだ。

この観点からいえば、安倍首相は世界で最も厳しい安全基準と自画自賛しているが、我が国の安全性は脆弱と言わざるを得ない。

具体的には、欧州の基準と比べてみると以下の3点で確実に劣っている。①防護壁、②フィルターベント、③コアキャッチャー。それぞれ見てみよう。

    防護壁は、欧州では9.11テロをきっかけに、飛行機の直撃に耐えられるように全て2重防護壁となっているが、日本は一重防護壁である。

    フィルターベントは、格納容器が破損しないように、圧力を下げることで放射性物質を除去する排気システムのことで、欧州では標準装備だが、日本では一部しか採用されていない。

    コアキャッチャーは、核燃料のメルトダウン(溶け出す)が発生した場合の受け皿で、溶けた核燃料がすぐに冷める構造で、欧州では標準に設置されているが日本は配備されていない。


上記設備はどう防ぐか?という観点であるが、自然災害とは想定外のことが必ず起こる。日本ではコストの問題もあり、上記設備すら配備できていない。

さらに言えば、実際に災害が発生した際に重要なことは、如何にして非難させるか、どのようなネットワークで各自治体や国、自衛隊や警察、消防と連携を取るかが重要になってくるが、市や県を跨った災害の場合どこまで対応できるかは甚だ疑問である。


災害時の連携は、かなりの意思疎通が必要になるが、多くの自治体の場合、都道府県全てを包含するようなインフラすら備わっておらず、可及的速やかに対応が求められる災害の連携は期待できないと言って良いだろう。

筆者は、某県の災害対策システム構築のコンサルに関わったことがあるが、県内だけでも基準にばらつきがあったり、運用が統一できていないのが実情だ。

阪神淡路大震災時に、消防車のジョイント部分が自治体によって異なっており、消防活動に支障を来した事例は記憶に新しいところだ。


これまで、エネルギー全体の国内、国外の状況を整理してみた。
そして、安全性の整理も行った。これら全ての要素を今後日本としてどう包括的にエネルギー問題を捉えてゆくか?という極めて重要な命題を、自民も野党各党も正面から議論していると言えるだろうか?

単に原発の停止か再稼働かの選択ではなく、中長期的観点からエネルギー戦略を整理し、5年後、10年後、20年後にそれぞれどのような状態に持って行くのかを明確にしておく必要はないのだろうか?

それこそ本来の意味での3本目の矢を、次期代替エネルギー分野に何等かの形で集中投資する意思決定を行うことや、ひとたび災害が起これば日本国内は言うに及ばず、中国、韓国、東南アジアの各地域で放射能事故があれば、当然ながら日本への被害も想定される。

もっと地球規模で考え、できることは必ずある筈だと思う。


全面停止でも、それなりのリスクは考えておく必要があることは既に述べた。
反対に即再稼働でも、相対的にみて脆弱な施設での運用を強いられることになる。
更には、使用済み核燃料の処理についても、何ら対策は改善されていない。

完璧な方法などは存在しないが、政治家として、国を預かる政権として、得られるメリットだけでなく、どのような危険があるのかをしっかり示した上で、政策を述べて欲しいものだ。

エネルギーは命に係わる問題である。国、地域、地球規模の将来を大きく左右する課題である。本日述べた問題以外にも視点、観点は存在する。まずは有権者が判断できる目を養うことがスタートだと思う。


しっかりと検証して大切な一票を投じて頂きたい。

2014年11月28日金曜日

衆院選への臨み方を考える-広い視野で意思を明確化する


投票日は1214日という、年末も迫った師走半ばというスケジュールだ。解散に対する支持率は産経新聞とFNN22日、23日両日に実施した世論調査によると、首相が解散を決断したことについて「適切だと思わない」が72.2%、「適切だと思う」の22.8%を大幅に上回った。
20141121日突如、衆議院が解散し、第47回衆議院議員総選挙が行われる。
今日は、この衆議院選挙に対する臨み方の概要を少し考えてみたい。

時間が許せば次回以降いくつかの問題について投票日までに深堀できればと思っている。



考えるポイントとして、①何故解散したのか?(この選挙に大義はあるのか) ②何が主な争点なのか? ③有権者は、自分の意思をいかにして明確にするのか?
というあたりについて、順を追って整理したいと思う。


まず、解散に大義があるのか?を考えてみたい。


メディアは色々な取沙汰をしているため、実際のところは神ならぬアベ(安倍首相)のみぞ知るところだろうが、幾つか考察できるポイントはありそうだ。

戦後の内閣は任期満了の1回を除くと解散総選挙が22回行われており、今度が23回目となる。
どの解散も、当たり前だがそれなりに解散の理由は存在する。

幾つか思い出してみよう。有名な第四次吉田内閣のバカヤロー解散、第二次佐藤栄作内閣の沖縄解散、第一次中曽根内閣の田中判決解散、最も解り易かったのは、何と言っても第二次小泉純一郎内閣の郵政解散だろう。


では今回はどうか?様々なメディアなどで伝えられている内容をまとめると、概ねこのような感じだろうか。

野党の結束がばらばらで、対抗勢力がない今だから。

内部では自民党総裁選が来年9月に控えており、このところ内閣支持率は下落する一方で、同調査では48.9%と1か月前より4.1ポイント下げており、このままこの傾向が続けば、安倍氏の再選が危ぶまれる可能性があり、念願の憲法改正を睨んで今が好機と踏んだため。

すなわち、自らのポジションを維持するためではないか?と疑われている。

支持率低下の主な理由として、大きく振れたものとしては、集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈の閣議決定を6月に行ったことがあげられる。

この時点で、もともと下落傾向にあった支持率低下に拍車がかかり、一時は68%を超える支持率が、各社のデータにバラつきはあるものの、低いもので概ね45%~47%、反対に不支持率が最も低い数値で14%だったものが、現在は最も高い数値では40%を超えるまでになっている。


更に、いわゆるアベノミクスの成果としては、現時点では事実上失敗と言っても過言ではない状況だ。

主な経済指数をみても、今年の79月期の実質GDPの伸び率は前期比-1.6%、今年46月期はリーマンショック以来の落ち込みで-6.8%(年率換算調整済み)と2期連続のマイナス。

しかし、政府の見解は異次元の金融緩和などにより、アベノミクスは成果を上げており、継続させるべきだとなっている。

では、なぜ経済が悪いからという理由で消費増税(自民、公明、民社の3党合意により法律で決定している)を見送るのだろうか?論理が破たんしてはいないだろうか?
この理由での解散は果たして大義があると言えるのだろうか?




次に、争点について考えてみたい。

大まかには既に触れているが、まずはアベノミクスが上記のような状態にあるが、そもそもデフレ脱却という目標が正しい方向性なのか?

仮に正しい方向性だとしても、3本の矢は成果を上げているのだろうか?という2点について、しっかり検証する必要がある。


特に金融緩和は、本当に功を奏したと言えるのだろうか?

ガソリンは相対的に、円安に振れている以上に、OPECがダブついているにも関わらず原油価格を据え置いているため下がっているが、輸入している原油以外の原材料を使っている製造業、酪農などは軒並みコスト高になっている。(国内酪農家は、利幅がどんどん低下してピーク時(昭和38年)417600戸に対し、20142月現在、18600戸で実に96%減少している)この結果国産バターが手に入らない状態が起きている。(直近のアベノミクスだけの問題ではないが)


また、最も肝心な第三の矢として高々と掲げてきた「成長戦略」については、‘力強く実施する’、‘岩盤規制にも力強く挑戦してきた’という表明だけ?という印象を持つのは筆者だけだろうか?


この他には、特定秘密保護法案、原発の再稼働の問題、普天間の辺野古への移設問題、先ほど述べた集団的自衛権の問題、これらの諸問題についてのこれまでの対応について棚卸を行い、しっかりと見定める必要はありそうだ。もちろんこれ以外にも重要な問題はまだまだ数多く存在する。


最後に上記諸問題に対して傍観者でいること、若しくは他に選択肢がないからまた自民という投票で本当に良いのか?を真剣に考える必要があるのではないだろうか?


ポジティブ思考で考えると、安倍政権が国民に「真剣に国のことを考えないと大変なことになるよ」という警鐘を鳴らしてくれていると捉えられなくもない。1214日まではまだ時間はある。この機会に国の将来を考えて、自分なりに意思を持って投票に臨んでみてはいかがだろうか?


次回は原発問題について深堀してみたいと思う。自分が怠けないように衆院選投票日までに必ずUPすることを宣言する。

2014年7月6日日曜日

変えるべきものは何か?-集団的自衛権論議を検証する

201471日、安倍政権は巨船「日本丸」の舵を大きくきった。


戦後一貫して保ってきた武力行使の放棄について、憲法解釈(?)の変更という形で、実質的に武力行使の可能性を否定しない運用の閣議決定を行った。

そこで、今日は憲法とは何か?閣議決定とはどのような位置づけのものか?為政者(統治者、政治家)とはどのような存在か?について、原理原則を少し考えてみたい。


まず、憲法とはそもそもどのようなものか?一言で言えば「国の形を決めるもの」、すなわち、統治者(為政者)は憲法に従って、その権力を行使する(=立憲主義)ことが基本原則である。

この基本原則から言えば、為政者(政治を行う者)の活動は憲法によって規制されているのである。

有体に言えば、時の権力者(政治家)が勝手なことが出来ないように、しっかりと憲法が国の形を決めている。ということであり、その逆では決してないということだ。


次に閣議決定を大辞林で確認してみた。閣議決定とは、実務上行われている内閣の意思決定の一形式であり、憲法または法令に定められた法律案・政令・予算など内閣の職務権限として明示された事項、および他の重要な事項について行われる。

すなわち、閣議決定で憲法の解釈を変えるというのは、道義的にみて明らかな矛盾となる。

常識的に考えて、暴走を抑制する効果を狙ったものを、執行当事者自らの解釈で運用を変更できるのであれば、憲法の存在意義は薄れてしまう。


では、最後に為政者とは本来どのような存在なのか?

そもそも、閣議決定のメンバーは、首相をはじめとする閣僚である。その閣僚は、首相が任命権をもっており、首相自身は国会議員の首相指名にて決定される。

つまり、閣僚も首相もその人事は国民の手が直接届かないものであり、今回の閣議決定は、そこで選ばれたメンバーが、本来国民に負託されるべき憲法改正(内閣にて発議し、両院の23以上の賛成を経て、国民投票の結果多数となった場合に改憲となる)の領域を、解釈変更という玉虫色のプロセスで侵していることになりはしないだろうか?



TVの街頭インタビューでこの解釈変更の是非を問うていた(そもそも問うべき内容が妥当なのか甚だ疑問ではある)が、印象に残る回答があった。
曰く「閣議決定には反対だけど、選挙では自民党に投票してしまった。だから投票した自分たちの責任だ」と。

恐らく、大多数の国民は、これは憲法の改正に当たる変更ではないか?との疑いを持っているものと思われる。本来であれば公正な手続きのもと、堂々と議論を尽くし、その結果を国民投票にかけるべきなのではないか?



私は、集団的自衛権の是非を問うために疑義を呈しているのではない。70年近く武力行使は行わないというスタンスを守ってきた国が、突然、場合によっては武力行使も辞さない国に変わる。

それは、国民の民意を明確に問うことなく、たかが一内閣の閣議決定で行える事柄なのかを問題視している。


日本には憲法改正のプロセスが上記の通り存在する。しっかりと議論をし、国民に納得のゆく手順を適切・透明に行った上で、賛成多数で改正すれば良い。

法治国家である以上、決められた手続きに従い、公正に議論し決定するのが当然で、政治家はそれを遵守し、代議することを国民から負託されている存在の筈。


重要性、影響力から考えても、超A級の重要事項であることは間違いない。その改正手続きを、首相、閣僚が抜け道を探すように行うことがこの国の将来にとって良い選択だとは決して思えない。


我々に出来る前向きな行動として、自ら選んでしまった政治家を嘆くより、国民一人一人が、もっとこの国の将来を真剣に考えることへ自らを変える切っ掛けにしたいものだ。

2014年6月21日土曜日

Wit(ウイット)の欠落-塩村都議への野次の本質を考える

6月18日、都議会において、塩村都議(みんなの党会派)の晩婚化、晩産化対策における質問に対して、心無い野次が飛んだことは、既に皆さんもご存知のところだと思う。
21世紀の日本の首都東京都議会において起こったことに対して、実に私も同じ都民として恥ずかしい思いで一杯だ。

この件における野次の本質と、そもそも野次とは何か、議会におけるあるべき立ち居振る舞いとは何かを少し考えてみたい。


この問題、本質的には今後の我が国の方向性に影響する、極めて重要な問題である。
少子高齢化が叫ばれて久しいが、日本の人口分布は大きく変化している。

厚労省の統計によれば、高齢者の割合は1950年台では1桁であったものが、2010年国勢調査の結果は23%、2012年では24.1%、このまま推移すれば2055年には約40%に達する見通しである。

労働人口50%に対して、高齢者が40%という、極めて困難な時代を間もなく迎えるのである。

塩村都議の晩婚化、晩産化への質問は、このような人口推移の中、如何にして安心して結婚、出産できる社会にするのか?を本質的に問うた議論であった筈だ。


しかし、これに対する野次が、「お前が早く結婚しろ」、「産めないのか?」という問題の本質とは関係のない、セクハラまがいの低俗な内容であった。

塩村都議は、広島県出身の被爆2世であり、ご自身もそうだが、「年齢、病気、結婚、妊娠、出産に悩みを抱えている女性は沢山おられるが、その方々に対して本当にそのように言えるのか?失礼ではないか」と、インタビューでも回答されている。

現代日本は、出産、育児という観点からみて、素晴らしい環境とは言い難い、その根幹を議論すべき議会の場を議員として、どのように受け止めているのだろうか?と呆れてしまう出来事である。
晩婚化、晩産化の問題は、野次を飛ばした議員が考えているであろう程度の問題ではなく、国全体で真剣に考えてゆくべき課題である。


また、問題はもうひとつある。どのような責任と覚悟で議会に臨んでいるのか?という姿勢、矜持の問題である。


議会、野次といえば、つとに有名なのはイギリス議会だ。
しかし、そのイギリス議会であっても、ウィットに富んでいない野次、明らかに行き過ぎた野次及び、野次に対する反論については、首相といえどもしっかりと謝罪する。

ひとつ例を紹介すると、2012年5月英下院において、キャメロン首相が、労働党のシャドーキャビネット(影の内閣)で、財務相を務めるエドワード・ボールズの野次に対して「ブツブツ言うバカ」と言ったため、議長が「議会の慣例に反する」と指摘した。

これを受けてキャメロンは笑顔をむけながら「バカ」という表現を「我々を巨大な財政赤字と金融危機の中に置き去りにした男」に置き換えた。

紳士の国英国らしい、実にウィットに富んだエピソードである。
http://newclassic.jp/15867
(上記サイトに更に詳しい内容が記載されているので参照されたい)


アメリカに至っては、殆ど野次を飛ばす議員はいない。正式に発言機会を得て堂々と議論する。


今回の野次は、内容もさることながら、これだけ騒がれているにも関わらず、6月21日現在、野次を言った本人が名乗り出てこないことは、極めて問題だ。

議会は、都民により選ばれた議員が、都民に代わって代議する場である。
すなわち、代議士とはその責任を有権者から付託されている立場である。

自らの発言には、たとえ野次といえども責任をもつべきだ。
ましてや、私的な感想や議論の本質と何ら関係のない、低俗なセクハラで、女性蔑視と断言しても過言ではない発言をする場では決してない。

万が一発言してしまったとしても、議員としての責任と自覚があるのであれば、しかるべき態度で事の収拾を図るべきだ。

英国の例を先にお話ししたが、英国が紳士の国であるならば、我が国もブラジルにサムライを送り出している国ではなかったか?かつてはサムライの国と呼ばれてはいなかっただろうか?


サムライイレブンや、ご先祖に対し顔向けの出来ないような振る舞いは、もうやめにしてはいかがなものか?



2014年5月6日火曜日

パトロンシップのススメ

パトロンという言葉を聞くと、皆さんは何を思い浮かべられるだろうか?

広辞林を見ると、以下の2つの意味が記載されている。
①芸術家や芸人または、特定の団体などを経済的に援助する人。後援者。
②水商売の女性に金を出して援助する人。

もともとの意味を確認してみると、ラテン語のパテル(pater、父)から派生したパトロヌス(patronus)に由来する言葉で、意味するところとしては保護者で、法的、財政的、政治的援助を与える存在。である。

この意味からすると、上記①の意味をもう少し幅広くしたような概念と考えれば良いものと思う。

私が本日、提唱したいパトロンシップは、もともとの意味に近い概念で、対象となるのは、文化、芸術に留まらず、技術者、伝統工芸や優秀な起業家、企業における部下なども含む概念である。

パトロンの例をあげるとすれば、フィレンツェの同業者組合、メディチ家、ルネサンス・バロック期のローマ教皇、カーネギーなどが代表的な個人、団体であり、彼らがいたからこそ、その支援を受けた若者たちが多いに力をふるって、ルネサンス、近代芸術、科学などが花開き、促進されたと言っても過言ではあるまい。



日本においても、例えば伊勢神宮も素晴らしいパトロンと言える。
もともと、有名な式年遷宮が何故20年に一度かと言えば、素晴らしい技を持つ、職人の技術伝承のためである。

もちろん、神道の精神として常に新たに清浄であることが求められたためでもあるが、20年に一度と定められた大きな理由としては、熟練の宮大工が次の世代へ技術伝承するには、少なくとも遷宮を2度経験することが必要だったためである。

記録によれば第1回の遷宮は、西暦690年から始められ、途中戦国時代などで中断や延期などがあったものの、昨年の第62回まで、およそ1300年継続されている。

遷宮する対象は、2つの正宮の正殿、14の別宮の社殿、および65棟の殿舎、橋などが造り変えられ神宮司庁によると費用はおよそ550億円とのこと。



才能を開花させるための援助の仕組として、世の中には各種の奨学金制度は存在する。

しかし、筆者の提唱するパトロンシップは、広い概念で才能を伸ばすというよりは、伊勢神宮の式年遷宮や、ルネサンスのパトロンが行ったように、素晴らしい技術、知識、経験をもった人に、自らの技を次の世代を担う才能ある人々に伝承するために、協働することで更に高い技を磨いてもらうために、明確な目的をもって高いレベルのゴールに挑戦する機会を提供することだ。


JR九州の「ななつ星in九州」にも素晴らしいパトロンシップが見てとれる。極上の旅を演出してくれるのは、先端技術から、伝統工芸までを網羅する圧倒的な技術に支えられている。

いくつか例を挙げると、騒音、振動が抑えられた川崎重工の特殊車両の機関車、JR九州と日立製作所の共同開発による、ピアノ演奏を楽しむための防音設計の客車、ヒノキ工芸、備前家具製作所による一流ホテル並みの木工家具、有田焼の名窯である、柿右衛門窯、今右衛門窯、源右衛門窯による磁器、組子欄間などなどで、殆どのものが既製品ではなく、ゼロからデザインして作成された。

技術者は「技」は磨けるが、その技を更に伸ばすために挑戦する機会は、パトロンシップによって提供されなければ、技術者個人には限界がある。

ななつ星の磁器を担当された一人、十四代酒井田柿右衛門さんが生前、この七つ星の挑戦を心から感謝し、楽しんでおられたご様子をTVで紹介している映像を、今でも鮮明に記憶している。

読者諸氏の皆様の感じ方は様々だと思うが、私自身は現在の日本にかなり閉塞感を感じており、大きな転換点を必要としているように感じている。どんどん増えるシャッター通り、無くなってしまった伝統工芸など枚挙に暇がないほどだ。

筆者の提唱するパトロンシップは、先に述べた奨学金とは異なり、かなり明確に責任を伴うもので、プレッシャーを感じ、それを乗り越えてはじめて得難い価値を享受できるものだ。

ルネサンス期のパトロンは、それこそ無理難題をオーダーする。画家や芸術家はいかにしてその無理を凌駕できるかに挑戦し、見事凌駕した作品は、世界的、歴史的芸術品としていつまでも残る。

伊勢神宮を20年間に参拝する総数は、およそ1億人。(因みに、昨年は史上最多の1,420万人)その1億人の参拝客が、見るに足る出来栄えにしなくてはならないプレッシャーを乗り越え、期日に合わせて完成させる。

身近な例でいえば、震災後の牡蠣養殖復活、災害復興などのためのマイクロファンドなどもパトロンシップを感じる活動であり、もっと身近ではふるさと納税もその一歩だと考えられる。

投資する側は、必ずしもリターンを第一に考えるのではなく、もっと大きな視点にたって投資する。しかし、投資される側は、しっかり責任、プレッシャーを感じて期待に応えるために最大限の努力をする。その結果、高い壁を創意工夫することで乗り越えることで、単なる伝承ではなく新たな技術を習得する機会とする。

日本を元気にするためのひとつの方法として、私はこのパトロンシップという考え方を喧伝したいと考えており、当ブログでも、折に触れ様々な視点での活用法について述べさせて頂きたいと考えている。