2013年10月29日火曜日

偽りの「おもてなし」の本質的な問題-阪急阪神ホテルズ

去る10月22日、株式会社阪急阪神ホテルズが運営する8つのホテルのレストランなどが提供していた料理の、実に47品目がメニュー表示と異なる食材を使用していたことを会社が公表した。

ニュース、ワイドショーなどで取り上げられ、「料理偽装」問題として大きな波紋を呼んでいる。

この問題、10月24日に社長の会見が行われ、「料理偽装」ではなく、「メニューの誤表示」と主張し、更に10月28日には、「担当者が産地や製法を拡大解釈していた」との認識を示したのである。

どのような「誤表記、拡大解釈」だったかといえば、以下のような内容だ。

芝エビと表記したが、実際にはパナメイエビだった。
信州の天ざると表記したが、中国の粉が混ざっていた。
レッドキャビア(マスの卵)が実際はトビウオの卵、鮮魚が冷凍保存、手ごねハンバーグが既製品。
自然卵のオムライスが、液卵を混ぜたり、九条ネギが普通のねぎであったりといった具合だ。

これが47品目に上り、少なくとも2006年3月から起こっており、その間の利用客は述べ8万7775名に上る。


社長曰く、
原因は、調理担当者が慣れていない、認識不足で食材を知らないためである。

或いは、部門間の連携が悪く、うまくメニュー開発サイドと運営サイドがコミュニケーションが出来ていなかったため、メニューが先行してつくられ、実際には異なった食材だった。

との理由であり、決して偽装表示ではなかった。というものである。


ここで、幾つかの基本的な問題をあげておきたい。
まず、扱っているものが食材で、提供している場所が名前の通ったれっきとしたホテルであり、調理はプロの料理人であったことだ。

誤表記、拡大解釈というより、悪意がなかったと仮定しても、私には「誠意のない表記」、「ホスピタリティに欠けたメニュー」という表現が当てはまるように感じてしまう。

誠意やホスピタリティが欠けたホテルは、それ自体問題ではないのか??


28日夜、改めて出崎社長が記者会見に臨み、今回の一連の問題の責任を取り、11月1日付で辞任する意向を表明した。

辞任の理由について会見では、

「再調査の結果、お客様を欺く意図がなかったことが確認された」と述べたが、

一方で「ただ、この理屈はお客様には通らない。裏切り行為にほかならず、単に表示を誤っていたレベルを超えた【偽装】との指摘を受けても仕方ない」とのことだ。

この一連のプロセス、行動を少し紐解いてみたい。
そもそも、ホテルとはどのような場所で、生業(なりわい)は何か?という、基本に立ち返れば問題の本質は自ずと見えて来るのではないだろか?

利用したり、宿泊する側にとって、ホテルとは、束の間心を癒す空間であり、まさしく従業員の質の高い「おもてなし」というホスピタリティを期待する、信頼できる場所であるべきである。


阪急阪神ホールディングスのグループ理念は以下の通りだ。

「『安心・快適』、そして『夢・感動』をお届けすることで、お客様の喜びを実現し、社会に貢献します」

次に、その傘下で今回の問題のホテルグループである、株式会社阪急阪神ホテルズの企業理念が以下である。

「心豊かな社会の実現に向けて
私たちは、常に変革に取り組み、『安心・快適』
そして『夢・感動』をお届けすることで心豊かな社会の実現に貢献します」


これらの素晴らしい企業理念に照らしてみて、従業員に、その顧客の信頼に応える認識がどこまであったのだろうか?


また、社長の最初の会見内容、その後の素早い辞任会見にも疑問が残る。

最初の会見ですべきことは従業員を庇うことだったのだろうか?
次の行動として、この早い段階での辞任を決めるべきだったのだろうか?
責任ある企業のトップとして、どのような責任を取ったといえるのだろうか?

企業のトップとして、まずすべきことは、利用顧客への信頼回復を第一に考えることであると思う。

そして、透明性の高い事実の究明を行い、根本的な課題の特定と、再発防止のために何をすべきかの明示を、企業理念に恥ずかしくないレベルで行うことが必要だ。

今回の問題で阪急阪神ホテルズが失ったものは、ホテルとしての信頼であろう。
単に社長が辞任しても、ホテルグループとして、残された従業員がどのようにしてこの難局に対応するのかは全く見えていない。

辞任する覚悟を決めたのであれば、トップの果たす責任として
「事の究明に全力で当たり、信頼回復のための道筋を明らかにすること」が必要であり、自らの出処進退はその後の対応ではなかっただろうか?

不謹慎な表現かもしれないが、こういう時だからこそ、責任あるある行動によって、「流石に阪急阪神グループだ」という信頼を示すチャンスでなのではないだろうか。



2013年10月8日火曜日

安倍内閣を振り返る-自分の国を見定める

2012年12月26日、安倍晋三氏が96代内閣総理大臣に指名され、第二次安倍政権がスタートした。

1,000人の有権者を対象にメディアが行っている各月の支持率をみると、9月中旬現在で65.2%と高水準を記録している。

衆参両院で多数を占め、体制は盤石で長期政権を伺わせる勢いだ。
だが、本当にそのように安定した政権なのだろうか?
今日は、この安倍内閣の検証をしてみたいと思う。

特に今回注目したいのは、先日発表になった消費増税、オリンピック招致での安倍総理のスピーチ、原発問題とトップセールス、そしてアベノミクスである。


まず、消費増税だが現行の5%を、2014年4月に8%へ引き上げることを決定した。
しかし、当初の目的である「社会保障と税の一体改革」への対応の筈が、年金制度、社会保障抜本改革は見送られ、増税だけが決まってしまった格好だ。

理論的には、消費税は1%増税につき2.7兆円の増税と言われるため、3%で約8兆円の増収が見込めることになる。


但し、少子高齢化の影響で、社会保障費は年間1兆円程度増えていることと、法人減税を計画していることもあり、仮に社会保障費にだけ充当したとしても、この増収分は、すぐに追いついてしまうことになる。

また、根本的な問題として、平成25年度一般会計予算の内訳をみると、更に恐ろしい景色が見えて来る。
歳入92.6兆のうち、税収は僅か43兆円で、実に5割弱は国債などいわゆる借金で賄われている。

反対に歳出は、社会保障費に29.1兆円、国債に22.2兆円(返済に12.3兆円、金利に9.9兆円)でこの2費目で55.4%を占めることになり、特に国債は約43兆円を新たに発行するのに対して、僅か12兆円強を返済するに過ぎない。


また、財務省のホームページによれば、25年度末公債残高予想は750兆円で、一般会計税収の17年分に相当する額とある。

このことから考えると8兆円の増収分が、余裕をもって何かに充てられると考えるには無理が有り過ぎると言わざるを得ない。

もちろん、政治は継続であり、安倍政権だけがこの気の遠くなる額の国債発行の責任者ではない。
しかし、今回の消費増税に際して上記の状況を十分に説明したと言えるのだろうか?



次にオリンピック東京招致は記憶に新しいところで、各方面でそのプラスの影響が出始めている。
国として久々の大きなイベントで、日本が元気になる引き金になってくれることを切に望みたい。

だが、一方で手放しに喜べない部分もある。
3.11の復興が遅れていることを考えると、特に招致活動における安倍首相の最終プレゼンに私は疑問を抱かざるを得ない。


「The situation is under control」
これは残念ながら明らかな「嘘」であり、このことは以前当ブログでも記載したので、参照頂けたらと思います。
http://richard-kanasugi.blogspot.jp/2013/09/blog-post.html


「鋭意努力している」、「今後も努力をし続ける」という発言であれば、オリンピック招致という目的を考えれば、解らなくはない。

しかし、これまで一貫して事故処理の対応の殆どは東電任せで行われており、放射能漏れは全くめどがたっていない状況の中、一国のトップがこれまでも全力で対応しており、現在は完全にコントロールできているという虚偽の発言をしたことで、この発言を聞いて釈然としなかった方々は決して少なくないと思う。


そのUnder controlにはない原発を、こともあろうに首相自らが海外へ赴きセールス活動をしていることに関しては、もし、1度でも重大な事故が起こった場合、誰がどのように責任をとるのか?と疑問を抱く。

そもそも現代の人類は対応する術を持ち合わせているのだろうか?
チェルノブイリ、福島の惨状を見るに有効な手立てがあるとは言い難い。

先日、小泉元首相が原発ゼロを今から実施すべきという発言をして話題を呼んだが、彼が原発を推進してきた立場の人間であることからくる発言の是非についての批判はともかく、放射性廃棄物の処理能力、事故が起こった場合の対応を考えると、極めて真っ当な投げかけであることは疑う余地はないだろう。



最後に安倍政権の柱とも言えるアベノミクス三本の矢について。

皆さんも良くご存知の通り、
第一の矢は、2%の物価上昇目標が達成されるまで無制限の金融緩和の実施

第二の矢は、13兆円規模の財政政策、すなわち公共事業などの投資である

第三の矢は、民間投資を喚起する成長戦略、有体に言えば民間企業の設備投資を喚起する

現在、第二の矢までは実施されており、最後は民間の投資ということだが、民間の投資を誘発するといっても、果たして簡単にできるのだろうか?


投資を喚起するためには、成長が見込めなければならない。成長しないのに投資する企業は無いからだ。

しかし、5年スパンでみると、1960年代をピークに実質GDP(経済成長率)は下がり続けている。
これは、日本市場は成長市場ではない、いわゆる「伸びない市場」ということだ。

伸びない市場においては、量、規模の拡大を誘発するのではなく、海外市場へ積極的に打って出るための質の向上、付加価値の増大を狙うべきである。

これすなわち、設備投資ではなく、グローバル人的資本、グローバル人財に対する投資である。
可及的速やかに、世界に通用する人材、リーダーの育成が必要だと考える。


しかし、以前当ブログにおいて記載したように、日本は内向き志向に向かっている。
http://richard-kanasugi.blogspot.jp/2013/07/blog-post.html

「2本の矢は放ったのだから、後は民間の投資の番だ」と言わんばかりの体制ではなく、どう積極的に3本目の矢を活用するのかを、政府も真剣に議論すべきではないのか?

或いは、「原発ゼロを実現する」、「同時にクリーンな代替エネルギーによる電力維持」、「電気料金は寧ろ低減することを実現する」という意思決定をし、新しい日本のエネルギー供給体制を実現するという舵をきった方が、第三の矢に相応しい原動力につながるのではないだろうか?



これまでの安倍政権の振り返りを行ってきたが、どの政策を見ても、現在の支持率が示すほど、実際の成果は追いついていないようだ。

今後も、憲法改正問題、国防軍の創設、TPP、消費税の更なる増税など、国の将来を決めるような大きな意思決定が控えている。

これは他人事でも、対岸の火事でもない。まさしく「自分ごと」である。

我々日本人、一人一人が現政権を「印象」で支持するのではなく、事実をしっかり見つめることで政権の運営に注視し、この国の舵取りを見守る必要があるのではないかと思う。





2013年9月25日水曜日

半沢直樹最終回にみる教訓-倍にして返す中身と相手

平成の怪物番組、TBSの半沢直樹の最終回が9月22日に放映された。
ビデオリサーチによれば、関東の平均視聴率42.2%、瞬間最高視聴率46.7%とのことで、平成になってからの民放ドラマとしては、もちろん断トツのトップを記録した。

まだご覧になっていない方で、今後見る予定のある方は内容にふれるため、ドラマを見てからお読み頂くことをお奨めします。


このドラマ、「倍返しだ!」という流行語を生んだことでも、話題を呼んだ。
主人公がいわゆる悪役を成敗する仕立てで、溜飲が下がる思いで毎回を楽しみにしていた視聴者が多かったという。

しかし、最終回はかなり意外な結末で終わった。
成敗されたはずの悪役は常務取締役から取締役への降格という比較的軽傷で済んだ。

一方、成敗した側である主人公は子会社へ出向(事実上の左遷)を言い渡されたところで番組は終わる。
両者降格であるが、主人公の方が大きな代償で、実質的には負けである。

ネットでも終わり方に関して、様々な意見が飛び交っているようで、流石に人気の高さが窺える。


内容はご存知の方ばかりだとは思うが、念のため少しだけ整理すると、この主人公の銀行への入行の動機は、町工場を経営していた自身の父親が、銀行から融資が受けられず自殺に追い込まれたことに端を発する。

その銀行とは、現在は合併後であり、当時の銀行そのものではないが、まさに自身が務める東京中央銀行である。

更には、当時の担当者は現常務取締役の大和田で、今回の半沢の最終的な標的である。


その最終標的にたどり着くまでに、何人かの人間とかかわり、何人かの悪を成敗してきた。

その成果の報酬(取引条件)として、一支店の融資課長であった半沢は、標的である大和田常務に近づくために本社の営業二部次長へ栄転する。

そして、ある融資案件を巡って大和田と対決し、最終的には勝利するのだが、処遇は当人の予想とは大幅に異なり、出向を言い渡されるという結末で終わる。


「続編のために、敢えてこのような形にした」、「映画化をするために、あえてインパクトの強い変な終わり方にしたのではないか?」、「黒幕は頭取だったのではないか?」
などが、ネットを賑わすコメントだ。
何というひどい人事だ、と残念に感じている方も多いのだろう。

しかし、筆者はこの人事、実は頭取の主人公に対する期待の表れであったと解釈している。
その意味では、条件付きながらかなり愛情のある人事だと言って差し支えないと思う。


これまで、半沢は銀行においてかなり仕掛けられ、裏切られ、スケープゴートにされながら、土壇場でピンチを切り抜けてきた。

大和田との最終決戦も構造としては同じだが、大きく違う点が1つ明確に存在する。


それは、これまでの勝利は全て、お客様のため、銀行のため、銀行員として自らが信じる行動をとったことにより収めた勝利である。

しかし、最終回は明らかに異なり、最後は純粋に私怨で、個人として大和田を貶めることが目的になってしまい、頭取の静止も無視して宿敵大和田に、取締役会出席の全ての人の前で、土下座をさせるというところまで追い込んでしまった。

これを主人公サイドにたってみた場合、スッキリした、溜飲が下がったと感じる向きも少なくないであろうが、この土下座はいったい誰の役にたったのだろうか?

もっと言えば、この光景を目にした人々にどのように映ったかを想像すると、半沢の狂気が透けてみえ、結局は、彼らに「未来の大和田」を想像させたようにすら見える。

仮に、今の半沢を2階級特進などに処遇した場合、狂気を通して倍返しした人間は褒められるという行為が「黙認された」と人々は感じ、殺伐とした文化が定着化していくだけで、父親を自殺に追い込んだ銀行の体質改善、意識改革とはほど遠い道を歩むことに他ならない。


頭取は、出向を言い渡す場面で、「この人事を是非とも受けて欲しい」と宣言し、発令する。
獅子が我が子を千尋の谷=bottomless ravine へ突き落すというが、まさにそのような心境ではなかっただろうか。

恐らく将来頭取の候補になれるくらいのパワーのある才能ある若者に、自らの狂気に己自身が気付くことで、自律的に成長して欲しいという愛であったように思われる。


やられたらやり返すという気概はバネになる。
しかし、実際に私怨で個人攻撃をしてしまえばそれはもう、社会人として、大人として不適格者ということになってしまうのではないだろうか?

ましてや、メガバンクの本社の次長であり、部下をもつ管理職としての立ち居振る舞いとして適切だったのか?

顧客のため、銀行全体のためになるという目的に合致した行動だったのか?

本当に強さを持った人間であれば、顧客のため、銀行のためにどのような行動を取るべきかを徹底的に考え抜くことが求められる。


心理学者のチャック・スペザーノ博士の著書に、「幸福こそ、最大の復讐である=Happiness is the Best Revenge」がある。
スペインのことわざにも、同じものが存在する。

倍返しとは、直接相手に痛みを与えることではなく、自らの成長、人のために尽くす行動という形で返すことが出来れば、大きな幸福につながるのではないだろうか。

人の上に立つ人間であれば、一歩進んで部下にその経験を積ませることで、幸せの意味を学ばせる責任があるのではないだろうか。

続編の半沢が、出向先で初心にかえり、素晴らしい活躍をすることを期待したい。


2013年9月6日金曜日

福島第一原発対応から学ぶ-見て見ぬふりをする平成日本人気質

連日のように報道されている、福島原発の放射能汚染水漏れ問題だが、この僅か10日程度で紆余曲折した。

8月30日に衆院経済産業委員会の理事懇談会において、放射能汚染の水漏れ審議は先送りとなった。
9月7日に控えたIOC(国際オリンピック委員会)総会前に、審議の紛糾は五輪招致に致命的との判断が働いたためとニュースは伝えた。

その後、2日のニュースではタンク周辺で最大、毎時1,800ミリシーベルトの放射能が観測されたと報じた。この値は4時間浴びると死に至るという放射能レベルとのこと。

さすがに、海外メディアもこの問題を連日記載しはじめ、これに伴い政府主導での対応が必要と判断し、急きょ470億円を投入して、政府が前面に立つことが決まった。

いわく、「一刻も早く問題に対処すべき」、「東電に任せておけない」とのことだ。


しかし、本当にそうだろうか?少し検証してみたい。

まず時系列に整理をすると、地下貯蔵庫から汚染水が検出され始めたのは、今年4月の上旬からで、抜本的な対策がなされないまま、7月には海流への流出が発表された。

更に8月20日に貯蔵タンクから300トンの汚染水漏れが確認され、同28日に国際評価尺度でレベル3(重大な異常事象)に引き上げられた。

これまでは原因が特定できないということで、発災以来2年半が経過しようとしている今日まで、何ら抜本的な対策が講じられず、いわば場当たり的な対処療法で過ごしてきたのである。

少なくとも、4月からの一連の出来事は、いずれも「一刻も早く対処すべき問題」ではなかったのだろうか?


次に、今何が問題なのか?についてその構造を整理すると、

①災害発生からずっと冷却水が注入され続けており、その汚染された冷却水が地下貯水槽から毎日400トン汲み上げられ、地上の貯水タンクに移されている。その結果タンクが日々増え続けていること。

②その汚染水を貯蔵しているタンク群の複数のエリア(現在4か所)から、汚染水流出が確認されていること。

③毎日1,000トンと言われる山側からの地下水の流入があり、原発は貯水タンクも含めその上に位置していること。

④汚染水が、毎日海流へ流出していること。

となるだろう。


これに対して、この度出された政府案は3つの柱から構成されている。

1.地下水を近づけない-上記1,000トンの地下水を近づけないために、原発全体を凍土壁で覆ってしまい、地下水が原発から迂回して海にそそがれるようにする。

2.汚染を取り除く-放射性物質除去装置「アルプス」の改良版を新たに開発して設置する。

3.海へ漏らさない-海側地盤の改良工事を加速。

というもののようだ。


しかし、凍土壁の完成予定は2015年夏ごろということで、どう少なくみても1年以上かかることは必定で、技術的にもこれほどの規模の経験はなく、更には今後どの程度続けるのか見えない長期にわたる運用(これまでの最長実績は2年)が求められるが、いずれもが未知数である。

また、現在のアルプスでは、放射能漏れ、腐食の問題などが発覚していることに加え、これからの開発になるため、これも進捗次第である。

何れの対策も、一刻も早くというのがこの先、半年、1年という単位で何も起こらないことなる。

しかも、完成までの対策、実際に作業する人員の確保などは触れられていない。
東電任せにできない計画のはずだが、結局は資金の手当てだけして東電に押し付けという構図だけは避けて欲しい。

そうでなくては、2年半の沈黙を突然破って470億円拠出する決定の拠り所である、政府主導、一刻も早くのいずれもが崩れてしまう。
そう感じるのは私だけだろうか?


一方で、先日1986年4月に起きたチェルノプイリ原発事故のその後をメディアが伝えた。

「27年たった今、ようやく廃炉に向けた準備をすすめる」というもので、実際に事故を起こした4号炉の原子炉建屋は、現在石棺で覆われているが、老朽化が進んだため、石棺ごと巨大シェルターで覆うというものだ。耐用年数は100年。

また、1から3号炉は2064年までに廃炉を完了する。とのことだ。

当時、発災2か月後の6月に60万人の兵士が導入され、原子炉建屋を覆う石棺建設が行われた。石棺は11月までのおよそ5か月で建設を終了した。対用年数は30年。

建設後27年目にあたる今年、対用年数が近づいたこともあり、巨大シェルター建設計画となったようだ。総費用は1,200億円とのこと。


我々日本人は、このロシアの経験に学ぶことは出来なかったのだろうか?
そもそも、しっかりとヒアリングや調査、分析などを実施したのだろうか?

上記の通り、我が国と比べロシア政府の対応は素早かった。
2年半が経過し五輪招致を前にした今、やっと重い腰を上げたことと比較するとその差は歴然だ。

何故、このような大きな差が出来てしまったのか?
「当事者意識の欠如」、「無関心」、「都合の悪いものには目を向けない」ことの表れではないだろうか?

上記3つを私は勝手に平成日本人気質と呼んでいる。

五輪招致も結構だが、福島の皆さん、いつ終わるともしれない原発対応の作業をしている職員の方々、汚染水を流出されることで操業できない漁業従事者の皆さん、そしてひょっとしたら影響を受けているかも知れない近隣諸国の皆さんへの対応は十分なのか?

政府として、東京電力として、この国の国民として、しっかり当事者意識を持って都合の悪い、汚染水問題に目を向けているだろうか?

「今からでも出来ることは何か?」を、1億人が真剣に考えたら凄いことが起こるのではないだろうか?
かく言う私も、改めて当事者意識を持って考えてみたいと思う。





2013年8月22日木曜日

隅田川流域の下町が熱い-下町アピール第二弾

先日、浅草の観光客数が年間2,000万人を超えたというニュースに触れた。


浅草は隅田川沿いにある江戸の情緒を残す歴史ある繁華街だ。今、浅草・隅田川が熱い。

隅田川を挟んで西側が台東区浅草、東側がスカイツリーのある墨田区になる。
今日は、暫しこの隅田川近辺について思いを馳せてみたい。

浅草は江戸時代、東京随一の繁華街であり、浅草寺の門前町として大いに栄えた。
その昔は遊郭で有名な吉原もこの地域にあり、江戸八百八町を下支えする日本一の歓楽街であった。


浅草が反映した経緯としては、浅草御蔵(現在の蔵前)に米蔵が設置されたことに端を発する。
ご存知の通り、当時の武士の給与は米であったため、旗本、御家人は幕府から米を支給された。
そして、この米の保管場所、およびその米を換金する機能をもった「札差(ふださし)」という商人たちが絶大な富を得た。

札差は、幕府からの蔵米の受け取りを旗本、御家人の代わりに行い、運搬、換金を行う。
更にはその米を米問屋へ売却する。この際2度利益が発生する。

また、札差は蔵米を抵当に旗本、御家人に対し金を用立てる金融業を営み、この金融機能が重要な役割を占めるようになり、次第に金だけではなく力を持つようになった。



この結果、札差たちが富を使って豪遊する場として浅草が栄えることになり、遊郭をはじめ、飲食街、歌舞伎の芝居小屋(中村座、市村座、河原崎座)、浄瑠璃などが集中した。


この隅田川エリアは文化としても栄え、古典落語、時代劇、歌舞伎、人形浄瑠璃などの舞台にも多く取り上げられ、江戸庶民はこの隅田川を大川と呼んで親しんでいた。

余談だが、正確には吾妻橋より上流を隅田川、吾妻橋から下流の厩橋までを宮戸川、厩橋から永代橋までを大川と呼んでいたようだ。

その隅田川にかかる橋は数多くあり、有名なものを挙げてみると、北から千住大橋、白髭橋、団子で有名な言問橋、ドジョウで有名な駒形橋、先ほどご紹介した蔵前橋、両国橋、永代橋、佃橋、以前跳ね橋として有名だった勝鬨橋などがある。

両国国技館などでも有名な両国という地名は、この橋が武蔵野国、下総の国の両国にかかる橋であったため両国となった。


東京スカイツリーのある駅は、以前業平橋と言い、伊勢物語の主人公在原業平にちなんで命名された場所だったが、現在はとうきょうスカイツリー駅に改名された。

昭和の中頃までは大変賑やかな場所で、花川戸の履物問屋街、すし屋通り商店街(明治には長さ100mの商店街に18件のすし屋が軒を並べていた)などがあり、中でも履物問屋は全国一の規模で、俗に「大坂、食い倒れ」、「京都、着倒れ」、「東京、履き倒れ」と称した。

また、小生の小学生時代までは、ろくろ首やオオイタチ(大きい板にペンキの血がついたもの)などの見世物小屋が立ち並び、寄席や映画館などのメッカでもあった。


しかし、東京大空襲の戦災、戦後はテレビの普及などで昭和40年代には映画館の閉館などにより、めっきり人通りが減少した。



その後、隅田川の花火大会の復活、浅草サンバカーニバルなどをきっかけに、仲見世、花やしきなどもイメージチェンジを図り、人力車による観光も盛んである。

浅草には三味線居酒屋なども存在し、民謡界の登竜門的な存在になっている。

因みに、小生の高校の同級生も浅草に店を構え、落ち着いた佇まいの雰囲気で津軽三味線を聞きながら、ゆっくりと食事ができるので、ご興味とお時間のある向きは、一度覗いてみて下さい。
http://www.waentei-kikko.com/


このように、浅草の様々な取組が功を奏して、徐々に活気を取り戻し、特に海外からの観光客が増え始め、宿は情緒のある浅草、昼間は東京近郊の名所を巡るなどという旅行者も多くいるようだ。

また、特にこの1年は隅田川対岸のスカイツリーオープンなどの追い風もあり、冒頭の数字を記録するまでに活況を呈している。

この内容は以前当ブログ
http://richard-kanasugi.blogspot.jp/2013/05/blog-post.html
でも触れているので、参照されたい。


スカイツリーの数字を見ると、オープン1年目の5月22日までの来場者数が、スカイツリータウンで5,080万人、スカイツリーで638万人を記録した。

東京ディズニーリゾートの2012年度1年間の来場者数2,750万人と比べても堂々たる実績である。



さて、色々と隅田川エリアの今昔に触れてきた。
ここでひとつ考えてみたいのは、現在の繁栄は’ホンモノ’かという点だ。

スカイツリーオープン以降の混雑は、観光各社の機動力によるところが大きい。
動員数は多いが多くのツアーでの滞留時間はごく短いものである。

団体ツアーでさらっと「通り過ぎた場所」、「一度行ったことがある場所」ではなく、個人や家族旅行で「滞在したい場所」、「また行きたい場所」にならなくては永く繁栄することは難しい。


隅田川エリアを、3,000万人の観光客を受け入れる京都や、海外の有名都市と肩を並べる観光地にするためには、多くの関係者を巻き込み、大いなる創意工夫がまだまだ必要だろう。

観光客に向け、「箱もの」だけではなく、そのエリアでの「息遣い」が魅力あるものとして、受け取ってもらえるよう、永い歴史と多くの資産を上手に活用して観光都市「隅田、浅草エリア」を実現して欲しいと願う。



2013年8月13日火曜日

世界の遺産は誰のもの?-後世へのバトンの渡し方

8月10日に松山の道後にある宝厳寺が全焼し、所蔵されていた国の指定重要文化財である「木造一遍上人立像」が消失した。

当地は、正岡子規、夏目漱石などが訪れた名刹で、温泉街に暗い影を落としている。
原因ははっきりしていないが、防火設備は十分では無かったようで、何らかの過失によるものだとすると、失った代償としては余りに大きなものとなった。

世界には他にも危機に晒されている人類の宝が多く存在する。
今日は世界的な遺産とは何か、それらを人類がどう扱うべきかについて考えてみたい。

去る4月25日にも、3年目に入ったシリア内戦によって、世界遺産に登録されている北部アレッポの旧市街を象徴するウマイヤド・モスクのミナレット(光の搭)が破壊された。

政府軍と反体制派との激しい攻防の中、考古学上の至宝とされてきたウマイヤド・モスクだが、入り組んだ彫刻が施された列柱は焼け焦げ、多数の弾丸跡、煤の染みなどで覆われてしまっており、預言者ムハンマドの髪の毛が入っていると言われる箱やイスラム教の遺物が略奪された。


また、西アフリカ・マリ北部の世界遺産都市トンブクトゥでも、昨年5月にはアルカイダ系武装組織「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」が、昨年6月にはイスラム過激派組織「アンサル・ディーン」が、それぞれ聖廟を破壊した。

そして2001年3月には、アフガニスタンでのタリバン政権による大仏の破壊が世界中に衝撃を与えた。

人類は何故、後世へ伝えるべき価値のある世界的遺産といわれるものを意図的に破壊するのだろう?

3世紀4世紀も前というならまだしも、21世紀の現代で数百年前と何ら変わらない愚行を繰り返している。
人類は成長していないのだろうか?



実は、破壊という行為でなくとも、リスクは存在する。ややもすると我々自身の何気ないふるまいが脅威になる可能性は十分にある。
例えば、世界遺産の建築物や、芸術品などにいたずら書きをする行為も、本質的には同罪である。
皆さんも観光地を訪れた際に、ご覧なった経験はおありだろう。

書いている本人は軽い気持ちでも、歴史上の重要な宝を私物のように扱ってしまう、倫理観の欠如としか言いようがない行為だ。

触れるような環境にしておくことを問題視するむきもある。
しかし、人類の遺産を近くで見ることは、歴史を学ぶ上でも、人格を形成する目的でも、豊かな感性を磨くためにも必要である。

一部の心無い行為をする輩のために、遺産を鉄格子で囲んで、多くの警備員に囲まれ、遠くからしか見られない状態を人類は望むのだろうか?




日本では、富士山の世界遺産登録に沸いているが、世界には上記の惨劇同様、2012年7月現在で38件の危機にさらされた世界遺産が存在する。

http://www.unesco.or.jp/isan/crisis/list/

世界的な宝をどう扱うべきなのだろう?我々人類は、まだその答えに向き合っていないのかもしれない。



ところで、アメリカでは今まさに、人類の宝をどう扱うかの議論が行われている。
先日、巨額の負債で破産したデトロイト市で、市が所有しているデトロイト美術館(DIA)のコレクションの売却を巡って意見が二分しているのだ。

実は、DIAは全米でも屈指の所蔵を誇る。
ルノアール、ブリューゲル、ゴッホ、ピカソ、ベリーニ、レンブラントなど6万点以上、
総額で1,000億超とも、なかには2,400億円との試算もあり、
市の財産管理を任命されたケビン・オア弁護士は負債総額1兆8千億円を減らすには良い資産と見ている。

しかし、美術品は市の財産であり、市民のためのもの。
従って、売却すべきでないという反対派も少なくない。
この声は市民、DIA職員から全米へひろがりはじめ、美術団体からは非難が続出している状況だ。


もちろん、美術品は金銭で売買されている。これは否定できない事実である。
しかし、これだけ多くのしかも1級品が一度に売却されるケースは極めて稀と言ってよい。

もしも、殆どが個人所有になってしまったら、人類はほぼそれらの名画を見る機会はなくなるだろう。
それで良いのだろうか?

しかし一方で、「市民のための所蔵であって、市の負債のために売却はしない」というコメントもやや違和感を覚えざるを得ない。
一地方都市の住民のものなのだろうか?



勿論、そのような例ばかりではない。
世界的な遺産を守るために、人類が協力して努力を続けている例も存在する。

例えば世界遺産であるイタリアのヴェネツィア。
水の都で有名であるが、その反面、毎年のように浸水被害にあっている。

アクアアルタという高潮の時期は1メートルを超える浸水になる。
特にここ数年は、環境変化の影響もあり、その頻度が高く、大きな被害となっている。

その対応のために、イタリア政府は、旧約聖書でユダヤ人たちを率いて開いて道になった紅海を渡ってエジプトを脱出した預言者モーゼにちなんで、「モーゼ」プロジェクトと名付けられた堤防建設を進めており、3000人の人員と5,600億円の費用を投じ2014年完成を目指している。

ヴェネツィアの住民、観光客、イタリア政府は、人類の宝である水の都を守るため、自らの生活での制約、観光の不便さ、税金の投入をそれぞれが負担して、維持に努めている。


人類史上にその名を残す芸術品、建築物、都市、自然はどれも素晴らしいものばかりだ。
二度と得られないような類まれな光や価値を持つ。

しかし、人類はその価値に気が付かず、破壊という愚考を今でも繰り返している。
世界レベルの遺産と言われるものは、もはや誰のものでもあるまい。
人類が協力して後世へ残すべきものであろう。

そのためには、人類は応分の負担を引き受けなくてはならない。
それが今を生きる我々が、後世へいかにしてバトンを渡すかの責任なのではないだろうか?
お盆休みの時期に、人類の遺産について考えてみるのも悪くない。

2013年8月8日木曜日

麻生氏発言の本質的な問題は?-文脈を見る力を養う

去る7月29日 都内での麻生太郎副総理兼財務相の問題発言が、
本当の問題点は何か?が明らかにならないまま、終息を迎えようとしている。


ご存知のナチスドイツに関する発言である。
ユダヤ人人権団体、中国、韓国、当のドイツからも批判の声が上がり、本人は発言を撤回したが、海外メディアから非難が続いた。

何とも奇妙なことに、冷静にこの事態を検証してみると、非難される側、非難する側の各関係者の誰一人として、事の真相、全体像をつかんでいないのでは?と首を傾げたくなる。


まず、ユダヤ人人権団体は、「ナチスのどんな手法に学べというのか?」「ひそかに民主主義を損なうことか?」との声明を発表した。

次に当のドイツは、「ナチスは合法性を装い、憲法を失効させた」「誰も気づかないで変わったなどということは全くなかった」という趣旨の指摘をしている。

WSJ(Wall Street Journal)では、通常ナチスを引用する場合、否定的に使う。肯定的に使うことは有り得ないし、あった場合政治的な責任問題となる。という趣旨の指摘だ。

中国、韓国はこのタイミングで日本が右傾化を加速させているという趣旨の発言を行い、国内メディアの論調は、発言内容の言及しやすい部分を取り上げて批判を行っているように見受けられる。


そもそも、麻生氏がどのような文脈でナチスという表現を使ったのか?これを明らかにするために、発言そのものを記載してみたい。


(サイトに全文記載がなく、報道ステーション映像より抄訳を記載)
・・・狂騒、狂乱の中で憲法改正を決めて欲しくない。落ち着いて我々を取り巻く環境は何か?状況をよく見た世論の上に成し遂げられるべきだ。
そうしないと間違ったものになりかねない。・・・・・

(憲法改正で)2/3(以上の賛成)の議論があるが、ドイツのヒトラーは、議会によって民主的に選挙で多数を占め、選ばれて出てきた。・・・ワイマール憲法という当時ヨーロッパで最も進んだ憲法の下で選ばれた。
憲法が良くても間違いは有りうる。・・・・・・・

靖国参拝も静かにすべきだ。「静かにやろうや」ということで、ワイマール憲法はいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かない間に変わった。あの手口を学んだらどうか。・・・民主主義を否定するつもりは全くない。喧騒の中で決めないで欲しい・・・・・

概ね以上の内容である。


麻生氏の発言は4つの観点で問題があるように思う。

①ナチスの引用
今回ナチスを引用し、あたかもナチスを賞賛(特に後段)しているように聞こえる文脈で使ってしまったが、国際常識として、国の指導者が引用する事例としてはあまりに配慮に欠けた不適切な例であろう。

②事実誤認
麻生氏のコメントに曖昧な表現があり、咀嚼力が必要ではあるものの、明らかな事実誤認が存在している(ナチス憲法などは存在せず、1933年に全権委任法が成立し、一党独裁を認めるものとなった 等)。

③例示の利用
例示とは、ある表現、内容を解りやすくするために利用するものだが、麻生氏の場合主張したいと思われる内容と、引用がかみ合っておらず、解りにくくなってしまった。(後段が靖国問題にかかるのか、憲法改正かがはっきりしない)

④論理矛盾
そもそも何を訴えているのかが不明。
何を学べと言っているのか、文脈の前後がつながらない。

前段の主張(やや否定的に使っている)と後段(寧ろ肯定的に使っている)は明らかに不整合であり、そもそもの主張が解らない。
(前段の憲法改正と後段の靖国問題が何故か同じ文脈で語られ、一方はやや否定的にワイマール憲法を引用し、他方では手口を真似ろという肯定的文脈で同じワイマールを引用)

一見、前段はナチスを否定しているようであるが、咀嚼すると、
2/3以上の多数決があったとしても、ワイマール憲法下のナチスでは、ヒトラーは多数を占めて憲法を改正した。なので、喧騒の中で変えるのではなく、落ち着いて納得して変えるべき。

という主張だが、その先にあるのは自民党の改正案、96条改正条項の「2/3以上を過半数にする」を支持すべきというところにつながる。
2/3でも十分でないという主張なのに、何故自民の改正案を支持するのか?これも明らかに論理矛盾である。


上記のような内容に対して、ドイツ、ユダヤ人人権団体をはじめとする海外メディアのコメントは彼らの立場、麻生氏の発言内容の質を考えればある程度理解できる。

しかし国内メディアは、「海外のメディアがこう言っている。」「ナチスの引用は良くない」という主張に留まっており、メディアの立場が不明確なのである。


麻生氏の今回も含めた失言の数々は、与党の重責にある人間としては、社会人としての見識、政治家としての資質、与党ナンバー2の資格が問われる問題であり、このような政治家を輩出した我々自身を恥ずべきであり、引き続き我々国民が糾弾すべきものだ。


しかし、メディアの体たらくぶりは見過ごせない。
引用、批判をするなら、海外メディアの批判に便乗したり、些末な表現だけを指摘するのではなく、文脈をおさえ主張内容の何が問題かを明確に問いただすべきだ。

また今回、本当に問題視すべきポイントは、意味の通らない主張を軽々しく行った挙句、何ら脈絡とは関係のないナチスを、事実誤認により利用してしまったことだと思う。

しかし、その本質を正面から指摘した国内メディアは残念ながら、まだ確認できていない。

更には、発言撤回を発表した際に、「ナチスに対して極めて否定的であることは明らかだ」
というコメントを行った彼に関し、国内メディアから何ら指摘が見られないのは残念の極みである。
寧ろ国内メディアはトーンダウンしてしまった。

言い逃れが出来てしまうのは、国内メディア側の主張、質問力に問題があると思う。
この曖昧さを排除するためには、

自らの立場を明確にすること。加えて発言の文意、文脈をおさえることだ。
海外メディアから見られても恥ずかしくない、良識ある、緊張感を持った真に価値ある報道を切に望みたい。

2013年8月2日金曜日

全柔連は何を間違えたのか?-次の目標に向けて

日本柔道が危うい。
いよいよ国民から見放されてしまうかもしれない事態になってきた。

報道では、上村会長の辞任がフォーカスされているようだが、7月30日に行われた全日本柔道連盟の評議員会においては、執行部を含む現職の理事全員の進退を巡り、解任動議の採決が行われ、結果的に反対多数で23人の理事全員が留任となった。


全柔連の不祥事は、ニュースで取り上げられたものだけでもかなりの数に上る。
監督・コーチによる女子日本代表選手への暴力行為、複数の体罰問題、助成金の不正使用、オリンピックの英雄と言われた元選手や理事による暴行事件・セクハラなど、これだけを見るとまるで犯罪の巣窟のようにすら感じてしまう。

この状況において、連盟は十分な原因調査、しかるべき責任の所在、適切な対応策などについて、周囲が納得できるレベルの説明をしていない。

メディアから会長の進退についてコメントを求められても、いずれ辞任するとの発言はあるが、幾度となくその時期は変わってきていた。

   
そんな中、肝心の日本柔道の成績はどうなのだろうか?
振り返ってみたくなった。

柔道界の大きな大会としては、オリンピックと世界選手権がある。

オリンピックにおける柔道は、64年東京大会から正式種目となった。
前回ロンドン大会では金メダル1個を含むメダル獲得総数7個。
総数こそまあまあだが、金1というのは、過去11回のオリンピックではソウル大会と並んで最低獲得数となり、男子金ゼロは初めてのことだった。

世界柔道選手権では、日本は、56年の初参加から最多獲得メダル国となった。
この地位は、第3回大会(61年)のオランダ大会の他、無差別級のみ開催の年、中止など変則的な年を除けば、2010年の28回大会まで25回も日本が独占してきた。

しかし、直近の2011年大会ではフランスにその座を奪われ、2012年がオリンピックだったため雪辱戦は今年8月下旬の大会いかんとなる。

つまり、ここ数年日本柔道は以前のような強さが薄れてきている。

専門家の中には、公式ルールが日本に不利に変更されたり、判定が厳しくなったとの見方もあるが、他の競技との相対比較でみても、以前に比べ総合力が衰えてしまった感は否めない。


改めて、冒頭の評議員会の結果について、上村会長からの最新コメントは、8月下旬に自らを含め現執行部5名が辞職するというものであった。

しかし、これは内閣府の事実上の辞任勧告である、改善策提示の回答期限8月末を受けてのことで、自浄作用によるものではない。

加えて、内閣府は執行部の辞任だけでは不十分、しっかりとガバナンスの強化が図られる改善策の提示が必要と言及しているが、至極当然のことである。


さて、ここで上村氏の役職を整理しておきたい。彼は3つの団体の役職者である。
全日本柔道連盟の会長職、国際柔道連盟(IJF)の指名理事、そして柔道の総本山である講道館館長の3つである。

今回辞任するのは、この内全柔連会長、国際柔道連盟(IJF)指名理事(8月に改選)、講道館館長は留任する意向である。

全柔連新会長は、「外部からの招聘が必要で、理事も全員辞任すべき」という山下泰裕理事の発言で、人事を刷新する方向が検討され始めた。

IJFは8月に改選を控えているので、その結果次第となるため除外する。


ここで、確認したいのは、何故講道館館長は継続なのか?ということだ。
講道館館長という役職は、段位の認定、発行という国内柔道においては、非常に大きな権力を保持できるもので、権力を手放したくないという意向に取られても致し方ない。

専門家には、講道館館長の職をおさえておけば、実質的に影響力は変わらないというむきもある。
範を垂れるべき地位にある人間として、「相応しい行動」と自信を持って説明が可能なのだろうか?


何故、日本柔道界はこのようになってしまったのか?
現在の日本柔道界は明確な次の目標がないからだと私は推測する。

日本柔道は世界の柔道になり、世界柔道連盟には200の国が加盟している。
これは取りも直さず、数の上では歴史上もっとも成功した素晴らしい武道であり、スポーツ競技の1つであることに他ならない。

しかし、国内の競技人口はそれとは逆行で減少しており、フランスが50万を超えているのに比して、日本は20万を割った。剣道の166万人と比較しても、その弱体化は否めない。

頂点を極めた組織がその次の目標が明確でない場合、見られる傾向として推進力は弱まり、規律の空白状態が起こり、自己保身に走る。

本来執行部、理事という役職は名誉職ではなく、マネジメント職である。すなわち、現在と将来に向け更なる発展を目指すための執行責任者である。

過去の偉業の功労者へは、別の形で慰労すべきで、マネジメントは真に柔道という素晴らしい武道をけん引するに相応しい人材から選ばれなければなるまい。


このような状況の今だからこそ、積極的かつ抜本的な対策が必要で、柔道界全体の改革が求められている。

そもそも柔道とは、心身を鍛錬し、人間教育の側面が強い心技体の武道である。単に強い弱いといういわゆる競技の側面だけではない筈で、先達の素晴らしい業績を更に発展させるために、柔道の本当の意義を伝道する役割は、全柔連、講道館が担うべきなのではないだろうか?


毎日、必死に練習している現役の選手が恥ずかしくない「品格」をいち早く取り戻してほしいと切に願う。


2013年7月29日月曜日

スペイン列車事故を考える-鉄道が目指すべき姿とは?

楽しいはずの列車の旅が、一瞬にして大惨事と化したスペイン北西部サンティアゴ・デ・コンポステラの高速鉄道の脱線事故。
現地時間25日現在で、被害者数は、死者80名 負傷者178名に上った。

「聖ヤコブの日」の祝祭を控えてにぎわい始めた聖地を襲った、最悪のニュースとなった。

日本のメディアでも、監視カメラの映像による、制限速度80キロの場所をおよそ190キロで疾走する列車が脱線する瞬間を捉えた映像が繰り返し放映され、事故の凄まじさが脳裏に焼付く。

直接的な原因は、スピードの出し過ぎによるものと思われるが、何故このような事故が起こったのか?というと、別の顔が見えて来る。

スペイン国鉄の高速鉄道では、延着の際料金の払い戻し制度がある。
16分から30分では50%、30分を超えた場合100%を返却するというもので、当然ながら乗務員は、延着を避けようと、遅れれば速度を上げることになる。

事故を起こした車両も、事故現場付近でおよそ5分、正規のダイヤよりも遅れていたそうで、事故現場付近では、今回に限らず制限速度を超えることが半ば恒常化していたという証言もあるようだ。


ここで、「ん?どこかで聞いた話ではないか?」と感じるのは私だけであるまい。
そう、日本でもJR西日本の福知山線の脱線事故が同じ構図であった。

2005年4月25日の朝のラッシュ時に兵庫県尼崎市で起きた列車事故は、死者107名、負傷者562名を出す未曾有の大事故であった。

事故後の調査で明らかになったことは、教訓に満ちていた。
当時 JR西日本は当該路線において、私鉄競合他社と乗客を奪い合う熾烈な戦いを強いられており、スピードアップによる所要時間短縮、運転本数増加が求められていた。
厳しい社内規約、遅れに対する乗務員への罰則、余裕のないダイヤでの運行などという 決して良いとはいえない社内環境が明るみに出た。

起こるべくして起こった事故と言っても過言ではあるまい。


そして今回スペインで、図らずも日本と同じような構図の悲惨な事故が起こってしまった。



高速化は、世界中の鉄道業界の命題となっている。
今やヨーロッパ各国、アジア各国においても凌ぎを削る競争が起きており、そんな中、2011年7月の中国鉄道での衝突脱線事故も記憶に新しい。
いったい鉄道会社はどこへ向かっているのであろう?


一方で、今回のニュースに接して思い出したのが、スイスを旅した時のことである。
スイスの鉄道は、とても時間に正確で、清潔、安全性も高く、そして乗客への親切さが心に残る。

このスイス鉄道、他のヨーロッパの鉄道とは異なった意味の高速化を選択した。
このことを少し検証してみたい。

スイス鉄道は、九州より少し小さい国土に総延長距離5,380㎞が敷設され、国内の路線密度は世界一である。スイスは観光立国であり、国民だけでなく、多くの旅行者が鉄道を利用する。

国土の2/3が山岳地帯で、1000m進むと標高が480m上がるという急こう配や、標高3,454mという世界一の標高のユングフラウヨッホ駅などがあり、景色も素晴らしいが、鉄道を敷設する場所としては難所も多い土地柄だ。


上記のような環境のため、高速化といってもいわゆる高速鉄道の敷設ではなく、在来線の改良による高速化を選択したのである。

複線化、路線増設、路線間を結ぶ短絡線の建設などで乗り換えの利便性を向上させることで、路線網全体で所要時間を短縮する高速化を目指した。

山岳地帯ということもあり、大きな荷物の旅行者が多いため、旅荷を目的地まで別送するシステムを設けたり、見やすい表示、わかりやすいガイダンスなどを充実させることで、旅行者に優しい鉄道を実現している。

これは、Rail2000(ドイツ語でBahn2000)プロジェクトという、スイス鉄道全体の改善計画によるものだ。

この結果、時間は短縮されても、サービスの質は低下しない、利用者の利便性を考慮した定刻通りで且つ殆ど車内で立つことがない、素晴らしい運行を可能にしている。



翻って我が国の昨今の特に都心部での鉄道の状況を改めて見てみると、毎日のように乗客同士のもめごと、痴漢、線路内立ち入りなどのトラブルが発生している。
人身事故などの影響も合わせると、都心部ではほぼ毎日、どこかしらでダイヤが乱れている状況だ。

そもそも考えなくてはならないことは、鉄道は公共交通機関であるということだ。
つまり、運行する側だけの努力では改善は難しいのも実情だ。

ラッシュ時を避ける通勤、無理な乗車をしない、車内のマナーを守るなど、乗客にも出来ることは多くある。

先日、列車に挟まった乗客を40名近い他の乗客が駅員と協働して救助するという出来事があり、海外メディアに賞賛された。

このように利用する側も、「自分も環境をつくる構成員なのだ」という意識や品格を持つことで、鉄道の利用しやすさを向上させる一助は十分に担える。

そして、鉄道各社も単にスピードだけに着目するのではなく、心地よさ、快適さを追求する姿勢があっても良いのではないだろうか?

外国の方にとって、わかりやすい、利用しやすい駅なのか?
お年寄りや体の不自由な方に優しい設備は整っているのか?
乗換が解りにくい、遠い、渋滞して歩けないなどの不具合がないか?
などなど、スピード以外でも向上すべき内容は沢山あるのではないのか?

寧ろ、上記の問題をそのままに、単にスピードを上げてもトータルの所要時間は変わらない、若しくはほんの少しのトラブルでも起きれば、大きく遅れることすら十分に起こり得るのである。

何よりも、安全は鉄道にとって最も大切な目標である。
スピードが優先され大事故を誘発するなどということは、あってはならない。

鉄道各社も、そして利用する我々も、安全性を無視した劣悪な通勤環境でも1分を争い、会社に着くころにはくたくたな状態に甘んじるのではなく、余裕をもった通勤を快適に行えるように、1人1人が心掛けることを目指したいものである。

2013年7月24日水曜日

票の価値を考える-自民は本当に圧勝なのか?(参院選)

7月21日の参議院選挙は、自公連立の圧勝に終わった。
今回の改選議席は121だったが、与党は、うち76議席(全体の63%)を獲得し、野党の45議席を大幅に上回った。

しかし、これ程の差が着くほどの投票結果だったのだろうか?

実は、妻が、
「私の周りに誰1人として、与党に投票した人がいないのにおかしい」と言い出したことがきっかけで、少し調べてみた。

まず、比例区の得票数。
総数は、約5千3百万票(53,229,612)だ。
このうち、与党の得票数は、合計で約2千6百万票。
これは、総数の48.9%である。

次に、各選挙区の合計を…と思ったのだが、どこを探しても数字が存在しない。
そこで、東京選挙区を例に使ってみると、投票総数が約5百64万票(5,637,806)であり、
5人の当選枠のうち、1位と5位の自民党、2位の公明党の3名が与党である。

獲得票をみてみると、1位がおよそ100万票、2位がざっくり80万票、5位が約61万票であった。
つまり、3名の合計はおよそ247万票(2,474,859)で総数の44%である。

比例区は63%の議席を48,9%の票で獲得していることになる。
そして、東京選挙区も全く同じような比率で、全体の60%の議席を44%の票で獲得している。

与党と野党、という形で分けてみるならば、与党は全体の過半数の票も獲得していないのだ。
それでも、獲得議席は6割を超え、「圧勝」という見出しが紙面をにぎわす。


また、更に別の角度からみると、今回の投票率は52,65%だった。
乱暴な計算だが、この投票率を比例区に当てはめてみる。
与党は有権者全体の25,75%の票数で、63%の議席を獲得し、
東京では23,2%の支持で60%の議席を獲得したわけである。

実際の数字は多少かわるであろうが、概ね上記の比率である。


このような状態で本当に民意は反映されたことになるのか?
安倍政権の進め方にGoサインが出たのだろうか?


今回、あまりにも政党が乱立してしまい、反自民の票が分裂してしまった。

もちろん、選挙に死票はつきものだ。
しかし、絶対数でみた場合、過半数が与党を支持していないにも関わらず、6割以上の議席を獲得した事に違和感を感じるのは小生だけであろうか?

政党側も、少しの違いを際立たせるのではなく、民意をくみ取った日本全体の政治を大局的に判断した連携を模索するべきではなかっただろうか?



あるラジオ番組で、場所は聞けなかったが、どこかの商店街で選挙前に行われた取組みについて、取り上げていた内容に驚いた。

期日前投票をしてきた人、当日投票を行った人が、それを証明できれば、割引の特典が受けられるというセールを企画しているという、ニュースだった。

しかしこの企画、反対者からの抗議で中止になったのだそうだ。

その抗議の内容とは、何と、このセールで投票率が上がった場合、浮動票が増えるため、組織票(特定の支持基盤)で固めている政党に不利になるというものであった。

正直、空いた口が塞がらなかった。
このような理屈になっていない無理を押し通すことが、堂々とまかり通る時代なのか?と思い、
残念な気持ちになった。


浮動票とは、特定の政党を支持しない票であるから、どの党に投票するかの確率は平等で、反対者が主張している不利になる政党は存在しないし、反対する理由は全く妥当性を欠いている。

また、投票率を上げることが、より民意を反映する選挙になるのは当然のことで、反対すること自体ナンセンスだと思う。低い投票率を意図的にコントロールするのであれば選挙そのものの否定であり、民主国家ではないことになってしまう。


このままでは3年間国政選挙は行われない。
その間、消費税、TPP、憲法改正、国防軍の議論、集団的自衛権の行使、領土問題、普天間移設、原発再稼働など国の将来を二分するような大きな意思決定が数多くなされることであろう。

国民自らが選択した政治である。

これから我々に出来る事は、国民一人一人が無責任でいることをやめ、自らの国、政治に興味を持ち、責任を持ってしっかり監視し、参加することだ。

自らの1票を無駄にしないために。



2013年7月20日土曜日

複眼を持つ-51歳になって思うこと

今日、今年2度目のブルーベリー狩りに行ってきた。
自宅にも8本分の鉢があるのだが、育てる方はどうも下手くそで、収穫は大してない。

これまであまり気にしたことは無かったのだが、今日ブルーベリー狩りで思ったことは、見るポジションによって、実が見える角度が異なるということだ。

当たり前と言えば当たり前の話だが、思った以上に違う。

以前はただ無心に、「大きい実を、出来るだけ沢山」という、子供とほぼ同じ発想で、とにかく一番実がなっている木を探し、ひたすら採ってある程度表面が終わると、次の木という狩り方だった。


今日は、少し行く時間が遅くなり、午後になってからの訪問だったため、他のお客さんがある程度採られた後だったこともあり、パッと見て、「あれ?あまりない」という景色に見えた。

それでも、せっかく訪問したので、採り始めると、たくさんなっている枝が、少し奥まったところ、表側に見える枝に隠れて見えないところに点々と存在することに気が付いた。

また、更に進めていると、もっと多く存在することを知ることになる。

ブルーベリー農園に行かれた経験はおありでしょうか?


殆どの場合、列になって木が配置されており、両サイドから実を採ることが出来る。

片側から実を採っている時には全く気が付かないが、反対にまわると多くの実が隠れていることもしばしばで、真剣に探しているつもりでも実は、限られた場所しかみていないことを思い知る。



私は、仕事でトレーニングの講師を務める際、しばしば「複眼」という表現を使う。トンボなど昆虫の目が複眼で、ハチの巣のように多くのレンズ集合体が目になっているものだ。

ハエが2000個、ホタル2500個、トンボはなんと2万もの目を持っているようだ。
それぞれが位置と角度が微妙に異なることから、図形を認識できる仕組みである。

この複眼の仕組みを引用して、例えば、顧客分析などをする際に、単眼で顧客を決めつけてしまうのではなく、様々な観点から見つめることで、その顧客像がはじめて立体的になる、というようなメッセージを伝えている。


私事で恐縮ではあるが、本日は、小生の誕生日だった。
ちょっと人生を振り返ってみると、実は人生として単眼になってしまい、見過ごしてしまったこと、気づかなかったことが山ほどあったのだろうと考えさせられた。

ブルーベリー狩りでも、1本の木をある程度しっかり見て狩る方が、表面的に沢山なっていそうなものを次々に狩るよりも結果的には収穫が多い。

これまで新しいことばかりを追求してきた人生のような気がする。
51歳の今日、己の人生で、大切だが忘れてしまったこと、本来行っていなくてはいけない仕掛かり事、不義理で会えない方々、やり残したことがないか、しっかり振り返ってみたいと思う。

実は、たくさんの教えがあるような気がしてならない。

今年1年の抱負は複眼をもって丁寧に生きてみようと思う。

2013年7月18日木曜日

制約の効用-加賀友禅を訪ねて

先日、金沢を訪問し、加賀友禅の工房や作品に触れる機会があった。最近、妻の趣味が高じて日本の伝統産業、特にきものの里を見学しているからだ。

毎回、たくさんの気づきや学びがある。今回の気づきは制約条件の持つ効用で、簡単に紹介してみたいと思う。

そもそも友禅染めとは、元禄時代に扇絵師の宮崎友禅斎によって確立された染色技法で、京友禅が最も著名だが、加賀友禅も負けずに素晴らしい。

両者は、同じ友禅だが少し違いがある。加賀友禅の方が、使える色の数、描く図柄などに制約、すなわち、「縛り」が多く、京友禅の方が自由度が高い。

しかし、加賀はその縛りを設けることで、独特の風合いを持ち、更には加賀友禅への思い入れ=プライドを醸成しているように感じた。


工房見学の際、友禅作家が出演した番組のビデオが流されており、何気なく見てみると冬に桜の木をスケッチしている場面だった。

もちろん、花など咲いている筈はなく、きものの図柄を描いているのではない。
なぜ冬の桜の木なのか?

作家曰く「冬場でないと枝振りが解らない。開花の時期は花で覆われており、木は殆どわからない。だから、今の季節に木を知っておく必要がある」

加賀友禅は、写実性を重んじる。「図は工房で机の上で書くものにあらず、外へ出て自然とふれあい描写すべし」が加賀の真骨頂である。

故に、図柄がかなりリアルに表現され、京友禅には決してない、虫食いの葉が描かれたりするのはこのためだ。

写実性を重視するからこそ、冬場に桜の枝をしっかりと見てスケッチしておく。
枝振りをしっているからこそ、花の時期でもその下にある枝をイメージしながら真の写実が出来る。



同様に、色も加賀五彩と言われる5色が基本(藍、臙脂=えんじ、黄土、草、古代紫)で、それを調合することで、何十種類もの色を作り出している。

加賀五彩は色も決して鮮やかでなく、落ち着いた風合いだ。
作家曰く「冬の金沢は、曇天が続き鮮やかすぎる色は合わない。」

このような気候風土だからこそ、落ち着いた色合いでも飛び切り魅力的に引き出す技法が発達した。

ぼかし、グラデーション、それらを美しく発色させるための絶妙なスピードコントロールによる友禅流しなどである。


曇天、加賀五彩、写実性は加賀友禅の制約条件である。
この制約を乗り越えるために、人は創造しアイディアが生まれる。

京友禅とて、制約は多く存在する。
そもそも21世紀にきものという文化、つくるための手間、コスト、保管などがそれで、特に女性物は着付けにも時間がかかる。

そんな制約を乗り越えるために、様々な発明、アイディアが生まれ続けているのである。

金沢は更に制約を課し、武家の文化である、質実剛健の気風を活かした作風を守ることで、そこに暮らす人々に加賀人としてのプライドまで培っているのだと感じた。



日本には嘗て、もっと多くの「きもの」の産地が存在した。しかし、環境の変化に適応できず終焉を迎えたものは少なくない。

そんな中で加賀では、創意工夫を繰り返し、加賀の住人もその文化を愛し、親が子に巣立つ日に持たせる習慣が、今でも脈々と引き継がれている。

翻って、我々都会の住人はこれが無いからできない、この制約はフェアじゃない、このような非効率なものはすべきでない、などなどとすぐに不足を嘆く。

しかし、100%充足された環境など有り得ない。

寧ろ、逆境だからこそ、誰も考え付かない発想が出来る。必要は発明の母と割り切って、制約を楽しみ、創造力で乗り切る気概を持ちたいものだ。





2013年7月12日金曜日

Common Sense(良識)を持つ-福島第一原発の吉田前所長を偲んで

東京電力、福島第一原子力発電所前所長、吉田昌郎氏が死去された。
食道癌、58歳の若さであった。
氏のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

ニュース番組では当時のビデオが流され、改めて吉田前所長の良識ある判断が無かったら、東日本がどうなっていたか?と想像すると、恐ろしい思いで溢れる。

その判断とは、本店からの原発への「海水注入を中止せよ」という指示を無視することだった。

読者の皆さんには釈迦に説法だが、あの状況下での吉田さんの判断は、今振り返っても素晴らしい英断だったと思う。


机上の空論という言葉が思い浮かぶ。

「海水をかけると原発が使えなくなるため、真水が到着するまで海水注入を待て」
という本店の机上の判断に対して、

吉田前所長は、目の前で爆発を目撃している現場の肌感覚として、注入を止めればチェルノブイリの10倍以上の大災害になると予想し、本店命令を無視して海水注入を続けた。

多くの専門家の分析では、あの判断がなければ、日本は北海道、西日本、九州と人の住めない東日本になっていた可能性が高いとの見解だ。


吉田前所長は、本当に「日本を救った恩人」であり、まさに「英雄」である。

その素晴らしい功績に対して東電は今回、癌の進行と被ばくは無関係との見解を発表。
曰く、吉田氏の被ばく量が70ミリシーベルトで、癌の進行を早める直接的な因果関係は認められないという主張である。

有体に言えば、「会社は関係ない」という意味であろう。



一方、つい先日南三陸町役場の危機管理課職員、遠藤未希さん(天使の声)ら33に対する、特殊公務災害の申請が却下(32名+未定1)された。

特殊公務災害とは以下の要件を満たした場合、傷病補償年金、障害補償又は遺族補償について特殊の加算措置を講じるシステムである。(以下、抜粋)

特殊公務災害の要件
特殊公務災害補償の対象となる職員は、警察官、警察官以外の警察職員、消防吏員(常勤の消防団員を含む。)、麻薬取締員及び災害対策基本法第50条第1項第1号から第3号までに掲げる事項に係る災害応急対策に職務として従事する職員。
(今回の南三陸町の危機管理課の皆さんの行為は該当します)

特殊公務災害は、これらの職員がその生命又は身体に高度の危険が予測される状況の下において、犯罪の捜査、火災の鎮圧その他政令で定める職務に従事し、そのために公務上の災害を受けたときに該当する。


天使の声は、最後まで、津波を避けるため逃げ惑う市民に高台への非難を呼びかけ続けて、自らの命を落としてしまった。

却下の理由は、放送していた場所は避難場所に指定されており、上記要件の「高度の危険が予測される」場所とは想定できなかった。というものだ。

しかし、実際に彼女が呼びかけた避難先は、その「危険とは想定できない庁舎」ではなく、もっと高台である。

理由は、6メートル以上の津波が予想され、庁舎では間に合わないことがわかったからである。

彼女たちの咄嗟の決断は、自らの危険を承知しながらも、最後まで放送を続けるというものであった。

この結果、町民の半数近くが難を逃れることが出来、多くの人が「あの女性の声が無かったら助からなかった」とコメントしている。


特殊公務災害基金も、東電も規則だから、基準に該当しないから、というのが言い分である。
あえて申し上げたい、それが一体何だというのか?規則は何のために存在するのであろう?

もともと、特殊公務災害は浅間山荘事件で、殉職した警官に何か報いる手立ては無いか?ということで作られたものである。

その設立の趣旨に今回の「役場の皆さんの貢献が該当しない」と、本気で考えているのだろうか?

判断した担当者が、厳密に該当しないものを適用したことを責められないための保身なのではないか?と疑いたくなるような杓子定規な決定だと感じる。

南三陸町の職員の皆さんも、吉田前所長も、自らの命を賭して市民を、国民を救ったのである。

私は、このような勇気ある人々を称えることに、何を恥じることがあるのか理解に苦しまずにはいられない。

補償金を出すか否かを問うているのではなく、何故、これだけの行為をした人達に感謝の意を表することを躊躇するのか?を問いたい。

ルールが無ければ作れば良い。良識として、彼らに報いなくて誰に報いるというのだろう。

もうそろそろ、官僚や役人、世間ずれした一部のエリート意識の人々には目覚めて欲しい。我々は現実を生きている。Common Senseとして彼らの勇気をほんの少し真似て、堂々と何らかの方法で報いて差し上げて欲しい。


今後、第二第三の英雄が自信を持って行動出来る国にするために。

2013年7月7日日曜日

設問する力-ニホンウナギ減少を受けて

ニホンウナギが無くなる?

土用(2013年入りが19日、丑の日は22日)を目前にして、うなぎの漁獲高減少が止まらない。

どのくらい危ないのか?
それを論じるためには、まず、ニホンウナギの生態について、簡単に知っておくことが必要だと思う。

近年まで殆ど謎だったようだが、最近になりかなりわかってきているそうだ。マリアナ諸島の西側辺り及びグアム島近辺などが産卵場所で、水深約200メートル。

孵化し仔魚(幼魚)になり、その後変態を行い、5センチ程度の「シラスウナギ」になる。
そのまま黒潮にのって生息域の東南アジア沿岸の川を遡り、成熟した後産卵場へ戻る。 

これが、ウナギのライフサイクルのようだ。


現在、国内消費の殆どは、このシラスウナギ漁で捕獲したウナギを中国や、国内数か所で養殖したもので、いわゆる天然のウナギは、国内養殖の1.5%程度。輸入うなぎの消費量も合わせると、0.3%にしかならないという。

その養殖ですら、日本でのシラスウナギの減少は激しい。
1960年近辺がピークで当時およそ230トンあった漁獲高が、
昨年は10トンを切る状況で、2013年は更に深刻化し、5トン強まで落ち込んでいる。ピーク時と比較すると、約140の量だ。


危ないことはご理解頂けたと思う。
しかし、一体何が原因なのか?データだけではさっぱりわからない。

ニュース番組で多くの報道がなされているが、ひたすら、「ウナギが食卓から消える」という類の「演出」ばかりが繰り返され、
減少の原因や、どのような方向で考えるべきか?今、行えることは?など、未来に向けた議論は起こっていないように思える。

番組でよく見かける街頭インタビューのシーン。
ここでも、インタビュアーの問いかけは、不安を煽るにとどまり、従って、回答する人々も「困る」、「頑張って食べる」、「もう閉店するしかない」というトーンである。


この現象、一体どこに問題があるのか?

私は、それは「設問の仕方」にあると考えている。
正しい答えを導けと言っているのではなく、正しい方向で議論すべきだと思うのだ。


専門家に対する設問であれば、専門家しか知りえない示唆、誤解しやすい情報の読み方、本当の意味の漁獲量の危険水域など、考えるべきヒントを回答してもらえるようなポイントを。

街頭のインタビューであれば、インタビューする側が、予め回答者に全体像を伝えたうえで、食する側として出来ることについてを、うなぎ専門店であれば、提供する側としてどのような活動が必要か?または、食する人、養殖する人、漁を行う人、あるいは国、地域に向かって、どのようなメッセージを発信できるかなどのポイント。

メディアは、上記それぞれの観点で、これからの方向性を考え始められるような設問をすることができる筈だ。


ウナギに関して言えば、調査はこれからで、原因が何か?については特定に至っていない。しかし、生態がある程度判明してきており、正しい方向での「設問」はおける。

産卵の数に問題があるのか?仔魚になる数か?シラスウナギになれない理由なのか?シラスウナギの回遊に問題があるのか?東南アジア沿岸地域の環境か?漁場の問題か?産卵に向かう戻りの過程に問題があるのか?

ざっとみても、いくつものポイントは浮かんでくる。専門家であれば更に細分化も、絞り込みも可能であろう。


これと同じような議論に、原発問題があると考えている。今の議論は、再稼働か廃炉か?の二極化の様相だ。

しかし、その前に、この事故の全体像は解っているのか?建設自体に問題があったのか、運用か、あるいは事後の対応なのか、私の理解では何も明確にはなっていないと思う。


設問の仕方とすれば、どこに問題があり、どうすれば防げたのか、今後終息に向け何を行えば良いのか、いつまでに安全に鎮静化するのか?

これが解らないまま、再稼働は言うまでもないが、輸出の拡大、あるいは他原発の全廃の議論は、あまりに早計と言わざるを得ない。

仮に廃炉しても、国内に2万トン以上保有しているとも言われる放射性廃棄物の処理の問題、再処理工場の対応、その他どのようなリスクや危険が存在するのか、全廃に向けた処理のプロセスなど全てが明らかになっているとは思えない。


全体像が解れば、国民一人一人も、自ずと自律的に何をすれば良いのか?は解る。1億人が解って行動すれば、必ず解決できる筈だ。

東電、政府は情報を隠すことに力を使うのではなく、いかにして正しい情報を開示すべきか、それによってどう解決するかに尽力して欲しい。


今年の土用の丑の日、どんな気持ちで迎えられるのか?七夕の今日、正しい設問で自問自答してみてはいかが?



2013年7月2日火曜日

内向きから外向きへ-不易流行の思想

先日、OECD(経済協力開発機構)が「図表でみる教育2013」を公表した。

その中で、大学などの高等教育機関に在籍する学生のうち、
海外で学ぶ日本人留学生の割合が加盟34か国中2番目に低い1.0%であることが明らかになった。(2011年実績)

因みに1位はアイスランドの18.9%で、最下位34位は0.3%の米国である。

他国と比較して水準が低い、というだけではない。
海外で学ぶ日本人留学生数のピークは、2005年の62,853人だったが、2011年の実績では38,535人だ。
ほぼ半減しているのだ。

その理由について、OECDは、海外に出るリスクへの恐れと分析している。


分析の真偽はともかく、今回の留学生減少に加え、昨今の憲法改正や靖国問題、安倍首相の様々な発言に対する「右傾化」論議などをみていると、少なからぬ人々が、世界を観ているというよりは、日本国内に焦点が当たる、内向き志向になりつつあるのでは?と疑いをもつのは私だけだろうか。


上記のような観点も踏まえると、これまでの数十年と比べ、最近の日本は明らかに変化している。その変化に少し不安定な雰囲気を感じ、ひとつの言葉を思い出した。

「不易流行」という言葉だ。

私はこの言葉が好きで、たまに引用する。
俳人松尾芭蕉が提唱したとされる言葉だ。

意味は、「不易」が変わらないこと、つまり原理原則のような位置づけで、
一方「流行」とは、絶えず新しさを追求すること。

一見矛盾するようだが、その意味するところは、本質を変えないために、常に新しさを追求し変化していくという概念である。

今の日本は不易なのか?と考えると、本質が見失われて、流行ばかりが先にたっているように感じる今日この頃だ。



しかしこの概念、実は様々な分野において上手に活用されている。

例えば日本の伝統産業でも、現在も伝統を受け継いで力強く生産を続けている産地は、この考え方を実践していることがわかる。

例えば、有田焼。
1992年をピークに売上が半減していたところ、空間デザイナーや、海外の有名デザイナーなどともコラボレーションを行ったり、いくつもの窯元同志がデザインを共有した製品をつくったりと、400年の歴史上初めての挑戦をし続けて、復活に向け邁進している。

南部鉄器も、フィンランドのデザイナーと組んで、ヨーロッパに合ったデザインの南部鉄器を開発し、実際に、現地のホテル、レストラン、家庭でも活用され始めている。

京都、博多のきもの産業も、伝統を守りつつも、製造工程の見直しを常に行い、現代のニーズに合わせた製品開発を行い続けている。


全てに共通することは、お客様目線に立ち、使ってもらえるお客様のニーズをしっかり理解し、伝統を守りつつも新たな概念、技術を積極的に取り入れ改革を行っていることだ。

歴史ある伝統技術、名前に奢ることなく常に挑戦し続けることで、寧ろ新たな発明、発見、革新を成し遂げ、消費者に進化した伝統品を提供してくれている。


お客様目線にたつ。
簡単なようでいて難しい。

その実現に不可欠な要素は、常に外に目を、耳を向けること。
広くアンテナを張リめぐらし、人に関心を持ってどのような情報でも逃げずに受け止め、
お客様になったつもりで考え続けることだ。

内向きの観点からは、変革は起こらない。
守るべき伝統と、変えるべきこだわりや偏見を見極めること。その目を持つこと。
それには常に新しい情報や人に触れる外向きの志向が必要だ。



改めて日本人留学生問題を考えてみよう。
34位のアメリカは別格とすれば事実上最下位だ。

しかし日本は貿易立国である。
各企業は、今後益々海外とのやりとりを積極的に行える、真の意味でのグローバル人材を求めている。

しかるに、留学生が半減しているのは明らかにその流れに逆行している。
単に目に見えない漠然とした「リスクへの恐れ」という理由で、内向きになってしまっているとしたら、これは余りにも大きな機会損失だ。

留学だけが解ではない。
しかし、留学は単に学問を学ぶだけの機会ではない。
海外を知る、他の国の友人を持つ、海外から日本を見る、日本を知ってもらうという意味において、新しい情報交換の宝庫である。

学生だけではなく、私自身も含め、今の日本人に必要なことは、日本のアイデンティティを持った上で、あらゆる機会、新鮮な情報に対してもっと貪欲になること。
そして、大きな視点で物事を考える機会を増やすことで、「グローバルな日本人」に進化し続けることではないだろうか。



2013年6月22日土曜日

無私のすすめ-大局観を持つ

日本維新の会の立候補取りやめが止まらない。
橋下共同代表の従軍慰安婦発言に端を発する影響が続いており、6月21日現在で立候補辞退が5人目となった。

ここでは橋下氏の発言に関する一連の騒動について触れたいと思っている訳でなく、異なったアングルから考察してみたいと思う。

今、日本維新の会で起こっていることは何に対する騒動なのだろう?何処に向かっているのだろう?と考えてみた。

まず、一連の騒動に対して両代表が衝突していること。オスプレイを伊丹で受け入れるという突然の発言が起こったこと。この騒動で立候補辞退者が相次いでいること。

全ての騒動は何故起こったのか?少なくとも日本維新の会の政治理念とは関係のない、短期的な損得のためのように思えてならない。
すなわち、明日の都議選、7月の参院選における得票数だけに着目しているからではないだろうか?


もちろん、政党である以上、選挙に勝たなくては政治理念を実現することは出来ない。しかし、目の前の選挙にだけ焦点を当てるのが政治というわけではない筈だ。

これまで橋下氏が行ってきた活動、そのアプローチは、一定の支持をされ、国民からも期待を持たれていたことは間違いがない。
ゼロから始めた政治活動が、50名を超える議員を擁する政党になった事実を見れば、このことに議論の余地はないだろう。


しかし、今起こっていることは、それに比べれば大局を見ているとは言い難いのではないか?
政党の代表の発言として真に国を考えた発言なのか?
国民の気持ちを考えた発言なのか?と考えると、党内と選挙に視点が偏っているように見える。



視点が偏っていると感じる意味では、安倍首相の田中均元外務審議官に対する発言問題での、細野氏とのバトルも構造的には同じ問題だと思う。

Twitter上での発信とはいえ、一国の首相という立場の人間が、個人批判のような発言をしている。
視座が低いのでは?という疑問は拭えない。

人は何故、批判に対して最初に自らを擁護する発言をしてしまうのだろう?
それが、公党の党首、一国の首相という立場でも変わらないようだ。


一方、アメリカでは次期FBI長官に、ブッシュ前政権で司法副長官を務めたジェームズ・コミー氏を指名したというニュースが報じられた。

民主党の大統領が、共和党の前政権の司法副長官をFBIの次期長官に指名したのである。

もちろん、オバマ大統領とて聖人君子ではない。現在起こっている個人情報収集問題PRISMに対する対応という側面はあるだろう。

しかし、オバマ大統領には他にも選択肢はあった筈で、党内もしくは共和党関係者以外から選ぶことも出来ただろう。

コミ-氏は、司法副長官時代に、国家安全保障局(NSA)が当時行っていた、
令状なしの盗聴に対して職を賭して反対した人物である。

難しい要職であるFBI長官という職責に対して、反骨精神の人であるコミ-氏がどう挑むのか。
国民に期待を抱かせる、言わばウルトラCの超党派の人選であると言って差し支えないだろう。


着目すべきは何故、オバマ大統領はこのような発想が出来たのか?ということだ。

それは、一旦同心円の視点から視座を変えて、大局的にこの問題を捉えたのだと思う。
日本でも超党派、是々非々の議論が必要だ、という主張があまたあるが、実現できないのは真に大局をみて判断しないからに他ならない。

能力の差ではないと思う。
無私の境地に一旦たてば、おのずと見えてくる発想だと思う。
国をリードする立場の人間であれば、まず無私になって考えて欲しいのだ。

何か起こった時に、議論の出発点を間違えると、どれほど能力のある人材でもその目は曇ることがある。苦しい状況は誰にでも訪れるが、その時に無私になれるか否かで取れる選択肢は大きく変わる。

国をリードする立場の人々には、自らの立場を擁護する前に、無私になって国益という大局的な観点で発想をすることを切に望みたい。