2015年2月13日金曜日

剣より強いペンの使い方-不寛容考①

世界が荒れ始めている。そんな感覚を持っているのは筆者だけではあるまい。

ISISの一連の問題、ウクライナでの武力衝突(本日停戦合意が発表されたが、余談は許さない)、アフリカ各地での暴動、米国での白人警官による黒人青年の射殺事件や、イスラム教徒への発砲事件などなど、枚挙に暇がない程だ。


昨今の様々な事件、紛争、犯罪において筆者が危惧しているのは、世界は他者に対する不寛容な時代に進んでいるのではないか?という問題だ。
特に現代日本人における寛容さの欠落に危機感を感じている。


オリンピック招致の際には、「OMOTENASHI=おもてなし」をアピールした日本だが、果たして今の日本は本当に「おもてなしの国」なのだろうか?


そこで、不寛容考と名付け幾つかの視点(シリーズ)で、日本における寛容度合いを考えてみたい。


第一弾として、昨今のペン(即ち記事、ネットへの書き込み、メディアにおける発言など)の使い方における寛容さについて検証してみよう。


その前に「寛容」とは何か?を定義しておく必要がある。まず、この寛容という言葉は、外来語のようで、英語の’tolerance’が明治になって翻訳された言葉とのこと。その意味は、心が広く、他人をきびしくとがめないこと。よく人を受け入れること。(大辞林)

また、ブリタニカ国際大百科事典などによると、元来は、異端や異教を許すという宗教上の態度についていわれたこと。となる。



まさに今、各地で起こっている紛争は、異教を認めない、異なる考え方、異なる人種を受け入れない=不寛容がもとで起きていると思われる事柄ばかりのように見える。

記憶に新しいパリのシャルリエブド社襲撃射殺事件の発端は、同紙にイスラム教の預言者を揶揄するような風刺画が載ったことに、過激な集団が過敏に反応し報復(彼らの主張)したとされている。


彼らの取った行動はどのような理由があるにせよ、許されるものではないし、肯定する余地など存在しないものだと断言できる。しかしシャルリエブド紙の「ペンの使い方」は適切だったのか?というと疑問は残る。
偶像崇拝を禁止する宗教に対して掲載するにしては、あまりに配慮に欠けた風刺画であったことは否めまい。


言論の自由、表現の自由は尊重されなくてはならない。しかし、同時に宗教もまた自由である。自由とは、他者を傷つけたり、貶めたりすることでは無い筈だ。つまり、何を書いても良いということでは無く、他者を認めること、受け入れることが大前提にあるべきだろう。

その意味で、シャルリエブドが記載した内容の是非について、しっかり検証した番組や新聞がどれほどあったであろうか?



「ペンは剣よりも強し」強いペンは使い道を間違ってしまうと、剣よりも恐ろしい武器となる。そうならないためにも、一方に偏り過ぎない報道が必要ではないか?



次に考えてみたいのは、日本中を震撼させたISISによる、日本人人質の殺害事件での後藤健二さんの行動に対するネットでの誹謗中傷についてだ。

後藤さん批判が非常に活発に投稿され、非は後藤さん側にあるかのような論調も目立ち、一部見るに堪えない表現までされている。
曰く、行動自体が迷惑で、日本人が狙われる可能性が高まったのは、彼らの行動によるものだという所謂自己責任論だ。


日本におけるジャーナリズムの在り方についての議論は、ここでは避けるが、本来非がどこにあるのか?を冷静に考えれば、残虐な行為をした側を糾弾すべきで、被害者に矛先を向けるのは本末転倒ではないだろうか?

ましてや、誹謗中傷している側が何か具体的な被害を蒙ったのであろうか?
仮にこの行動で被害を蒙ったのであれば、今回の行動の何が問題で、どうすべきであったかをしっかりと論拠を明確に示し、議論すれば良いのではないだろうか?

この例も、自分の考えと異なった行動を取った後藤さんを容認できない。という不寛容から来るものだと感じる。その発露がバッシングという誤った「ペンの使い方」に出てしまっているのではないだろうか?



また、先日ある大手新聞社の2月7日の社説に、「湯川さん、後藤さんの命を救えない憲法なんてもういらない」(一部抜粋修正)というものが記載された。憲法改正論を指示するという立場でのかなり偏った論調を展開したものがあった。


一般市民がネットなどへ投稿するのとは異なり、大手新聞社には言論の自由と共に踏まえなくてはならないものとして、伝える内容と、その根拠、公平性を担保した検証など、伝える中身についての責任と、報道によって与える影響があると考える。

この社説の「ペンの使い方」についても、我々はしっかりと検証する必要があるのではないだろうか?


メディアの質に関しては当ブログでも何度か触れたが、主義主張がはっきりしていることを否定するものではないが、確かな根拠もなく扇動するような表現は、メディアの矜持や品位を疑うことにつながる。

本来であれば、反対の主張も取り上げ両者を検証した上で論ずべき事柄ではないだろうか。

今回の殺人事件=憲法改正はあまりに飛躍が過ぎており、「現行憲法の世界観が薄っぺらい」とも述べているが、その結論を示す根拠はそれこそ「薄っぺらくない」ものと言えるのだろうか?



最後に、「ペンは剣よりも強し」の本来の意味について考えてみたい。


ご存知の方も多いと思うが、この原文は19世紀のイギリスの政治家で、作家でもあったエドワード・ブルワーリットンの戯曲「リシュリュー」に登場して有名になった言葉である。

日本では、「The pen is mightier than the sword」の部分が頻繁に使われているが、実際には「Beneath the rule of men entire great, the pen is mightier than the sword.」というものだ。


つまり、「権力のもとでは、ペンは剣よりも強い」という意味で、国家に反旗を翻して剣を取っても、逮捕状や死刑執行にサインするのでペンの方が強い。という権力側のペンの威力を表現したものであった。

本来の意味とは異なった意味合いで使われている言葉である。


が、どちらにせよ、ペンを使う側(=影響力のある者=ネットであれば一般の人ですら)は、その行使により傷つける人がいないか?相手を寛容しているか?使い方に間違いはないか?に留意せねばならない。



寛容さとは、相手を考える想像力だと言えるのではないだろうか。


かく言う筆者も、日頃の言動や立ち居振る舞いを反省すべきことは山ほどある。
この機会に、自らの寛容度合いを振り返ってみてはいかがだろうか?