2013年10月29日火曜日

偽りの「おもてなし」の本質的な問題-阪急阪神ホテルズ

去る10月22日、株式会社阪急阪神ホテルズが運営する8つのホテルのレストランなどが提供していた料理の、実に47品目がメニュー表示と異なる食材を使用していたことを会社が公表した。

ニュース、ワイドショーなどで取り上げられ、「料理偽装」問題として大きな波紋を呼んでいる。

この問題、10月24日に社長の会見が行われ、「料理偽装」ではなく、「メニューの誤表示」と主張し、更に10月28日には、「担当者が産地や製法を拡大解釈していた」との認識を示したのである。

どのような「誤表記、拡大解釈」だったかといえば、以下のような内容だ。

芝エビと表記したが、実際にはパナメイエビだった。
信州の天ざると表記したが、中国の粉が混ざっていた。
レッドキャビア(マスの卵)が実際はトビウオの卵、鮮魚が冷凍保存、手ごねハンバーグが既製品。
自然卵のオムライスが、液卵を混ぜたり、九条ネギが普通のねぎであったりといった具合だ。

これが47品目に上り、少なくとも2006年3月から起こっており、その間の利用客は述べ8万7775名に上る。


社長曰く、
原因は、調理担当者が慣れていない、認識不足で食材を知らないためである。

或いは、部門間の連携が悪く、うまくメニュー開発サイドと運営サイドがコミュニケーションが出来ていなかったため、メニューが先行してつくられ、実際には異なった食材だった。

との理由であり、決して偽装表示ではなかった。というものである。


ここで、幾つかの基本的な問題をあげておきたい。
まず、扱っているものが食材で、提供している場所が名前の通ったれっきとしたホテルであり、調理はプロの料理人であったことだ。

誤表記、拡大解釈というより、悪意がなかったと仮定しても、私には「誠意のない表記」、「ホスピタリティに欠けたメニュー」という表現が当てはまるように感じてしまう。

誠意やホスピタリティが欠けたホテルは、それ自体問題ではないのか??


28日夜、改めて出崎社長が記者会見に臨み、今回の一連の問題の責任を取り、11月1日付で辞任する意向を表明した。

辞任の理由について会見では、

「再調査の結果、お客様を欺く意図がなかったことが確認された」と述べたが、

一方で「ただ、この理屈はお客様には通らない。裏切り行為にほかならず、単に表示を誤っていたレベルを超えた【偽装】との指摘を受けても仕方ない」とのことだ。

この一連のプロセス、行動を少し紐解いてみたい。
そもそも、ホテルとはどのような場所で、生業(なりわい)は何か?という、基本に立ち返れば問題の本質は自ずと見えて来るのではないだろか?

利用したり、宿泊する側にとって、ホテルとは、束の間心を癒す空間であり、まさしく従業員の質の高い「おもてなし」というホスピタリティを期待する、信頼できる場所であるべきである。


阪急阪神ホールディングスのグループ理念は以下の通りだ。

「『安心・快適』、そして『夢・感動』をお届けすることで、お客様の喜びを実現し、社会に貢献します」

次に、その傘下で今回の問題のホテルグループである、株式会社阪急阪神ホテルズの企業理念が以下である。

「心豊かな社会の実現に向けて
私たちは、常に変革に取り組み、『安心・快適』
そして『夢・感動』をお届けすることで心豊かな社会の実現に貢献します」


これらの素晴らしい企業理念に照らしてみて、従業員に、その顧客の信頼に応える認識がどこまであったのだろうか?


また、社長の最初の会見内容、その後の素早い辞任会見にも疑問が残る。

最初の会見ですべきことは従業員を庇うことだったのだろうか?
次の行動として、この早い段階での辞任を決めるべきだったのだろうか?
責任ある企業のトップとして、どのような責任を取ったといえるのだろうか?

企業のトップとして、まずすべきことは、利用顧客への信頼回復を第一に考えることであると思う。

そして、透明性の高い事実の究明を行い、根本的な課題の特定と、再発防止のために何をすべきかの明示を、企業理念に恥ずかしくないレベルで行うことが必要だ。

今回の問題で阪急阪神ホテルズが失ったものは、ホテルとしての信頼であろう。
単に社長が辞任しても、ホテルグループとして、残された従業員がどのようにしてこの難局に対応するのかは全く見えていない。

辞任する覚悟を決めたのであれば、トップの果たす責任として
「事の究明に全力で当たり、信頼回復のための道筋を明らかにすること」が必要であり、自らの出処進退はその後の対応ではなかっただろうか?

不謹慎な表現かもしれないが、こういう時だからこそ、責任あるある行動によって、「流石に阪急阪神グループだ」という信頼を示すチャンスでなのではないだろうか。



2013年10月8日火曜日

安倍内閣を振り返る-自分の国を見定める

2012年12月26日、安倍晋三氏が96代内閣総理大臣に指名され、第二次安倍政権がスタートした。

1,000人の有権者を対象にメディアが行っている各月の支持率をみると、9月中旬現在で65.2%と高水準を記録している。

衆参両院で多数を占め、体制は盤石で長期政権を伺わせる勢いだ。
だが、本当にそのように安定した政権なのだろうか?
今日は、この安倍内閣の検証をしてみたいと思う。

特に今回注目したいのは、先日発表になった消費増税、オリンピック招致での安倍総理のスピーチ、原発問題とトップセールス、そしてアベノミクスである。


まず、消費増税だが現行の5%を、2014年4月に8%へ引き上げることを決定した。
しかし、当初の目的である「社会保障と税の一体改革」への対応の筈が、年金制度、社会保障抜本改革は見送られ、増税だけが決まってしまった格好だ。

理論的には、消費税は1%増税につき2.7兆円の増税と言われるため、3%で約8兆円の増収が見込めることになる。


但し、少子高齢化の影響で、社会保障費は年間1兆円程度増えていることと、法人減税を計画していることもあり、仮に社会保障費にだけ充当したとしても、この増収分は、すぐに追いついてしまうことになる。

また、根本的な問題として、平成25年度一般会計予算の内訳をみると、更に恐ろしい景色が見えて来る。
歳入92.6兆のうち、税収は僅か43兆円で、実に5割弱は国債などいわゆる借金で賄われている。

反対に歳出は、社会保障費に29.1兆円、国債に22.2兆円(返済に12.3兆円、金利に9.9兆円)でこの2費目で55.4%を占めることになり、特に国債は約43兆円を新たに発行するのに対して、僅か12兆円強を返済するに過ぎない。


また、財務省のホームページによれば、25年度末公債残高予想は750兆円で、一般会計税収の17年分に相当する額とある。

このことから考えると8兆円の増収分が、余裕をもって何かに充てられると考えるには無理が有り過ぎると言わざるを得ない。

もちろん、政治は継続であり、安倍政権だけがこの気の遠くなる額の国債発行の責任者ではない。
しかし、今回の消費増税に際して上記の状況を十分に説明したと言えるのだろうか?



次にオリンピック東京招致は記憶に新しいところで、各方面でそのプラスの影響が出始めている。
国として久々の大きなイベントで、日本が元気になる引き金になってくれることを切に望みたい。

だが、一方で手放しに喜べない部分もある。
3.11の復興が遅れていることを考えると、特に招致活動における安倍首相の最終プレゼンに私は疑問を抱かざるを得ない。


「The situation is under control」
これは残念ながら明らかな「嘘」であり、このことは以前当ブログでも記載したので、参照頂けたらと思います。
http://richard-kanasugi.blogspot.jp/2013/09/blog-post.html


「鋭意努力している」、「今後も努力をし続ける」という発言であれば、オリンピック招致という目的を考えれば、解らなくはない。

しかし、これまで一貫して事故処理の対応の殆どは東電任せで行われており、放射能漏れは全くめどがたっていない状況の中、一国のトップがこれまでも全力で対応しており、現在は完全にコントロールできているという虚偽の発言をしたことで、この発言を聞いて釈然としなかった方々は決して少なくないと思う。


そのUnder controlにはない原発を、こともあろうに首相自らが海外へ赴きセールス活動をしていることに関しては、もし、1度でも重大な事故が起こった場合、誰がどのように責任をとるのか?と疑問を抱く。

そもそも現代の人類は対応する術を持ち合わせているのだろうか?
チェルノブイリ、福島の惨状を見るに有効な手立てがあるとは言い難い。

先日、小泉元首相が原発ゼロを今から実施すべきという発言をして話題を呼んだが、彼が原発を推進してきた立場の人間であることからくる発言の是非についての批判はともかく、放射性廃棄物の処理能力、事故が起こった場合の対応を考えると、極めて真っ当な投げかけであることは疑う余地はないだろう。



最後に安倍政権の柱とも言えるアベノミクス三本の矢について。

皆さんも良くご存知の通り、
第一の矢は、2%の物価上昇目標が達成されるまで無制限の金融緩和の実施

第二の矢は、13兆円規模の財政政策、すなわち公共事業などの投資である

第三の矢は、民間投資を喚起する成長戦略、有体に言えば民間企業の設備投資を喚起する

現在、第二の矢までは実施されており、最後は民間の投資ということだが、民間の投資を誘発するといっても、果たして簡単にできるのだろうか?


投資を喚起するためには、成長が見込めなければならない。成長しないのに投資する企業は無いからだ。

しかし、5年スパンでみると、1960年代をピークに実質GDP(経済成長率)は下がり続けている。
これは、日本市場は成長市場ではない、いわゆる「伸びない市場」ということだ。

伸びない市場においては、量、規模の拡大を誘発するのではなく、海外市場へ積極的に打って出るための質の向上、付加価値の増大を狙うべきである。

これすなわち、設備投資ではなく、グローバル人的資本、グローバル人財に対する投資である。
可及的速やかに、世界に通用する人材、リーダーの育成が必要だと考える。


しかし、以前当ブログにおいて記載したように、日本は内向き志向に向かっている。
http://richard-kanasugi.blogspot.jp/2013/07/blog-post.html

「2本の矢は放ったのだから、後は民間の投資の番だ」と言わんばかりの体制ではなく、どう積極的に3本目の矢を活用するのかを、政府も真剣に議論すべきではないのか?

或いは、「原発ゼロを実現する」、「同時にクリーンな代替エネルギーによる電力維持」、「電気料金は寧ろ低減することを実現する」という意思決定をし、新しい日本のエネルギー供給体制を実現するという舵をきった方が、第三の矢に相応しい原動力につながるのではないだろうか?



これまでの安倍政権の振り返りを行ってきたが、どの政策を見ても、現在の支持率が示すほど、実際の成果は追いついていないようだ。

今後も、憲法改正問題、国防軍の創設、TPP、消費税の更なる増税など、国の将来を決めるような大きな意思決定が控えている。

これは他人事でも、対岸の火事でもない。まさしく「自分ごと」である。

我々日本人、一人一人が現政権を「印象」で支持するのではなく、事実をしっかり見つめることで政権の運営に注視し、この国の舵取りを見守る必要があるのではないかと思う。





2013年9月25日水曜日

半沢直樹最終回にみる教訓-倍にして返す中身と相手

平成の怪物番組、TBSの半沢直樹の最終回が9月22日に放映された。
ビデオリサーチによれば、関東の平均視聴率42.2%、瞬間最高視聴率46.7%とのことで、平成になってからの民放ドラマとしては、もちろん断トツのトップを記録した。

まだご覧になっていない方で、今後見る予定のある方は内容にふれるため、ドラマを見てからお読み頂くことをお奨めします。


このドラマ、「倍返しだ!」という流行語を生んだことでも、話題を呼んだ。
主人公がいわゆる悪役を成敗する仕立てで、溜飲が下がる思いで毎回を楽しみにしていた視聴者が多かったという。

しかし、最終回はかなり意外な結末で終わった。
成敗されたはずの悪役は常務取締役から取締役への降格という比較的軽傷で済んだ。

一方、成敗した側である主人公は子会社へ出向(事実上の左遷)を言い渡されたところで番組は終わる。
両者降格であるが、主人公の方が大きな代償で、実質的には負けである。

ネットでも終わり方に関して、様々な意見が飛び交っているようで、流石に人気の高さが窺える。


内容はご存知の方ばかりだとは思うが、念のため少しだけ整理すると、この主人公の銀行への入行の動機は、町工場を経営していた自身の父親が、銀行から融資が受けられず自殺に追い込まれたことに端を発する。

その銀行とは、現在は合併後であり、当時の銀行そのものではないが、まさに自身が務める東京中央銀行である。

更には、当時の担当者は現常務取締役の大和田で、今回の半沢の最終的な標的である。


その最終標的にたどり着くまでに、何人かの人間とかかわり、何人かの悪を成敗してきた。

その成果の報酬(取引条件)として、一支店の融資課長であった半沢は、標的である大和田常務に近づくために本社の営業二部次長へ栄転する。

そして、ある融資案件を巡って大和田と対決し、最終的には勝利するのだが、処遇は当人の予想とは大幅に異なり、出向を言い渡されるという結末で終わる。


「続編のために、敢えてこのような形にした」、「映画化をするために、あえてインパクトの強い変な終わり方にしたのではないか?」、「黒幕は頭取だったのではないか?」
などが、ネットを賑わすコメントだ。
何というひどい人事だ、と残念に感じている方も多いのだろう。

しかし、筆者はこの人事、実は頭取の主人公に対する期待の表れであったと解釈している。
その意味では、条件付きながらかなり愛情のある人事だと言って差し支えないと思う。


これまで、半沢は銀行においてかなり仕掛けられ、裏切られ、スケープゴートにされながら、土壇場でピンチを切り抜けてきた。

大和田との最終決戦も構造としては同じだが、大きく違う点が1つ明確に存在する。


それは、これまでの勝利は全て、お客様のため、銀行のため、銀行員として自らが信じる行動をとったことにより収めた勝利である。

しかし、最終回は明らかに異なり、最後は純粋に私怨で、個人として大和田を貶めることが目的になってしまい、頭取の静止も無視して宿敵大和田に、取締役会出席の全ての人の前で、土下座をさせるというところまで追い込んでしまった。

これを主人公サイドにたってみた場合、スッキリした、溜飲が下がったと感じる向きも少なくないであろうが、この土下座はいったい誰の役にたったのだろうか?

もっと言えば、この光景を目にした人々にどのように映ったかを想像すると、半沢の狂気が透けてみえ、結局は、彼らに「未来の大和田」を想像させたようにすら見える。

仮に、今の半沢を2階級特進などに処遇した場合、狂気を通して倍返しした人間は褒められるという行為が「黙認された」と人々は感じ、殺伐とした文化が定着化していくだけで、父親を自殺に追い込んだ銀行の体質改善、意識改革とはほど遠い道を歩むことに他ならない。


頭取は、出向を言い渡す場面で、「この人事を是非とも受けて欲しい」と宣言し、発令する。
獅子が我が子を千尋の谷=bottomless ravine へ突き落すというが、まさにそのような心境ではなかっただろうか。

恐らく将来頭取の候補になれるくらいのパワーのある才能ある若者に、自らの狂気に己自身が気付くことで、自律的に成長して欲しいという愛であったように思われる。


やられたらやり返すという気概はバネになる。
しかし、実際に私怨で個人攻撃をしてしまえばそれはもう、社会人として、大人として不適格者ということになってしまうのではないだろうか?

ましてや、メガバンクの本社の次長であり、部下をもつ管理職としての立ち居振る舞いとして適切だったのか?

顧客のため、銀行全体のためになるという目的に合致した行動だったのか?

本当に強さを持った人間であれば、顧客のため、銀行のためにどのような行動を取るべきかを徹底的に考え抜くことが求められる。


心理学者のチャック・スペザーノ博士の著書に、「幸福こそ、最大の復讐である=Happiness is the Best Revenge」がある。
スペインのことわざにも、同じものが存在する。

倍返しとは、直接相手に痛みを与えることではなく、自らの成長、人のために尽くす行動という形で返すことが出来れば、大きな幸福につながるのではないだろうか。

人の上に立つ人間であれば、一歩進んで部下にその経験を積ませることで、幸せの意味を学ばせる責任があるのではないだろうか。

続編の半沢が、出向先で初心にかえり、素晴らしい活躍をすることを期待したい。


2013年9月6日金曜日

福島第一原発対応から学ぶ-見て見ぬふりをする平成日本人気質

連日のように報道されている、福島原発の放射能汚染水漏れ問題だが、この僅か10日程度で紆余曲折した。

8月30日に衆院経済産業委員会の理事懇談会において、放射能汚染の水漏れ審議は先送りとなった。
9月7日に控えたIOC(国際オリンピック委員会)総会前に、審議の紛糾は五輪招致に致命的との判断が働いたためとニュースは伝えた。

その後、2日のニュースではタンク周辺で最大、毎時1,800ミリシーベルトの放射能が観測されたと報じた。この値は4時間浴びると死に至るという放射能レベルとのこと。

さすがに、海外メディアもこの問題を連日記載しはじめ、これに伴い政府主導での対応が必要と判断し、急きょ470億円を投入して、政府が前面に立つことが決まった。

いわく、「一刻も早く問題に対処すべき」、「東電に任せておけない」とのことだ。


しかし、本当にそうだろうか?少し検証してみたい。

まず時系列に整理をすると、地下貯蔵庫から汚染水が検出され始めたのは、今年4月の上旬からで、抜本的な対策がなされないまま、7月には海流への流出が発表された。

更に8月20日に貯蔵タンクから300トンの汚染水漏れが確認され、同28日に国際評価尺度でレベル3(重大な異常事象)に引き上げられた。

これまでは原因が特定できないということで、発災以来2年半が経過しようとしている今日まで、何ら抜本的な対策が講じられず、いわば場当たり的な対処療法で過ごしてきたのである。

少なくとも、4月からの一連の出来事は、いずれも「一刻も早く対処すべき問題」ではなかったのだろうか?


次に、今何が問題なのか?についてその構造を整理すると、

①災害発生からずっと冷却水が注入され続けており、その汚染された冷却水が地下貯水槽から毎日400トン汲み上げられ、地上の貯水タンクに移されている。その結果タンクが日々増え続けていること。

②その汚染水を貯蔵しているタンク群の複数のエリア(現在4か所)から、汚染水流出が確認されていること。

③毎日1,000トンと言われる山側からの地下水の流入があり、原発は貯水タンクも含めその上に位置していること。

④汚染水が、毎日海流へ流出していること。

となるだろう。


これに対して、この度出された政府案は3つの柱から構成されている。

1.地下水を近づけない-上記1,000トンの地下水を近づけないために、原発全体を凍土壁で覆ってしまい、地下水が原発から迂回して海にそそがれるようにする。

2.汚染を取り除く-放射性物質除去装置「アルプス」の改良版を新たに開発して設置する。

3.海へ漏らさない-海側地盤の改良工事を加速。

というもののようだ。


しかし、凍土壁の完成予定は2015年夏ごろということで、どう少なくみても1年以上かかることは必定で、技術的にもこれほどの規模の経験はなく、更には今後どの程度続けるのか見えない長期にわたる運用(これまでの最長実績は2年)が求められるが、いずれもが未知数である。

また、現在のアルプスでは、放射能漏れ、腐食の問題などが発覚していることに加え、これからの開発になるため、これも進捗次第である。

何れの対策も、一刻も早くというのがこの先、半年、1年という単位で何も起こらないことなる。

しかも、完成までの対策、実際に作業する人員の確保などは触れられていない。
東電任せにできない計画のはずだが、結局は資金の手当てだけして東電に押し付けという構図だけは避けて欲しい。

そうでなくては、2年半の沈黙を突然破って470億円拠出する決定の拠り所である、政府主導、一刻も早くのいずれもが崩れてしまう。
そう感じるのは私だけだろうか?


一方で、先日1986年4月に起きたチェルノプイリ原発事故のその後をメディアが伝えた。

「27年たった今、ようやく廃炉に向けた準備をすすめる」というもので、実際に事故を起こした4号炉の原子炉建屋は、現在石棺で覆われているが、老朽化が進んだため、石棺ごと巨大シェルターで覆うというものだ。耐用年数は100年。

また、1から3号炉は2064年までに廃炉を完了する。とのことだ。

当時、発災2か月後の6月に60万人の兵士が導入され、原子炉建屋を覆う石棺建設が行われた。石棺は11月までのおよそ5か月で建設を終了した。対用年数は30年。

建設後27年目にあたる今年、対用年数が近づいたこともあり、巨大シェルター建設計画となったようだ。総費用は1,200億円とのこと。


我々日本人は、このロシアの経験に学ぶことは出来なかったのだろうか?
そもそも、しっかりとヒアリングや調査、分析などを実施したのだろうか?

上記の通り、我が国と比べロシア政府の対応は素早かった。
2年半が経過し五輪招致を前にした今、やっと重い腰を上げたことと比較するとその差は歴然だ。

何故、このような大きな差が出来てしまったのか?
「当事者意識の欠如」、「無関心」、「都合の悪いものには目を向けない」ことの表れではないだろうか?

上記3つを私は勝手に平成日本人気質と呼んでいる。

五輪招致も結構だが、福島の皆さん、いつ終わるともしれない原発対応の作業をしている職員の方々、汚染水を流出されることで操業できない漁業従事者の皆さん、そしてひょっとしたら影響を受けているかも知れない近隣諸国の皆さんへの対応は十分なのか?

政府として、東京電力として、この国の国民として、しっかり当事者意識を持って都合の悪い、汚染水問題に目を向けているだろうか?

「今からでも出来ることは何か?」を、1億人が真剣に考えたら凄いことが起こるのではないだろうか?
かく言う私も、改めて当事者意識を持って考えてみたいと思う。





2013年8月22日木曜日

隅田川流域の下町が熱い-下町アピール第二弾

先日、浅草の観光客数が年間2,000万人を超えたというニュースに触れた。


浅草は隅田川沿いにある江戸の情緒を残す歴史ある繁華街だ。今、浅草・隅田川が熱い。

隅田川を挟んで西側が台東区浅草、東側がスカイツリーのある墨田区になる。
今日は、暫しこの隅田川近辺について思いを馳せてみたい。

浅草は江戸時代、東京随一の繁華街であり、浅草寺の門前町として大いに栄えた。
その昔は遊郭で有名な吉原もこの地域にあり、江戸八百八町を下支えする日本一の歓楽街であった。


浅草が反映した経緯としては、浅草御蔵(現在の蔵前)に米蔵が設置されたことに端を発する。
ご存知の通り、当時の武士の給与は米であったため、旗本、御家人は幕府から米を支給された。
そして、この米の保管場所、およびその米を換金する機能をもった「札差(ふださし)」という商人たちが絶大な富を得た。

札差は、幕府からの蔵米の受け取りを旗本、御家人の代わりに行い、運搬、換金を行う。
更にはその米を米問屋へ売却する。この際2度利益が発生する。

また、札差は蔵米を抵当に旗本、御家人に対し金を用立てる金融業を営み、この金融機能が重要な役割を占めるようになり、次第に金だけではなく力を持つようになった。



この結果、札差たちが富を使って豪遊する場として浅草が栄えることになり、遊郭をはじめ、飲食街、歌舞伎の芝居小屋(中村座、市村座、河原崎座)、浄瑠璃などが集中した。


この隅田川エリアは文化としても栄え、古典落語、時代劇、歌舞伎、人形浄瑠璃などの舞台にも多く取り上げられ、江戸庶民はこの隅田川を大川と呼んで親しんでいた。

余談だが、正確には吾妻橋より上流を隅田川、吾妻橋から下流の厩橋までを宮戸川、厩橋から永代橋までを大川と呼んでいたようだ。

その隅田川にかかる橋は数多くあり、有名なものを挙げてみると、北から千住大橋、白髭橋、団子で有名な言問橋、ドジョウで有名な駒形橋、先ほどご紹介した蔵前橋、両国橋、永代橋、佃橋、以前跳ね橋として有名だった勝鬨橋などがある。

両国国技館などでも有名な両国という地名は、この橋が武蔵野国、下総の国の両国にかかる橋であったため両国となった。


東京スカイツリーのある駅は、以前業平橋と言い、伊勢物語の主人公在原業平にちなんで命名された場所だったが、現在はとうきょうスカイツリー駅に改名された。

昭和の中頃までは大変賑やかな場所で、花川戸の履物問屋街、すし屋通り商店街(明治には長さ100mの商店街に18件のすし屋が軒を並べていた)などがあり、中でも履物問屋は全国一の規模で、俗に「大坂、食い倒れ」、「京都、着倒れ」、「東京、履き倒れ」と称した。

また、小生の小学生時代までは、ろくろ首やオオイタチ(大きい板にペンキの血がついたもの)などの見世物小屋が立ち並び、寄席や映画館などのメッカでもあった。


しかし、東京大空襲の戦災、戦後はテレビの普及などで昭和40年代には映画館の閉館などにより、めっきり人通りが減少した。



その後、隅田川の花火大会の復活、浅草サンバカーニバルなどをきっかけに、仲見世、花やしきなどもイメージチェンジを図り、人力車による観光も盛んである。

浅草には三味線居酒屋なども存在し、民謡界の登竜門的な存在になっている。

因みに、小生の高校の同級生も浅草に店を構え、落ち着いた佇まいの雰囲気で津軽三味線を聞きながら、ゆっくりと食事ができるので、ご興味とお時間のある向きは、一度覗いてみて下さい。
http://www.waentei-kikko.com/


このように、浅草の様々な取組が功を奏して、徐々に活気を取り戻し、特に海外からの観光客が増え始め、宿は情緒のある浅草、昼間は東京近郊の名所を巡るなどという旅行者も多くいるようだ。

また、特にこの1年は隅田川対岸のスカイツリーオープンなどの追い風もあり、冒頭の数字を記録するまでに活況を呈している。

この内容は以前当ブログ
http://richard-kanasugi.blogspot.jp/2013/05/blog-post.html
でも触れているので、参照されたい。


スカイツリーの数字を見ると、オープン1年目の5月22日までの来場者数が、スカイツリータウンで5,080万人、スカイツリーで638万人を記録した。

東京ディズニーリゾートの2012年度1年間の来場者数2,750万人と比べても堂々たる実績である。



さて、色々と隅田川エリアの今昔に触れてきた。
ここでひとつ考えてみたいのは、現在の繁栄は’ホンモノ’かという点だ。

スカイツリーオープン以降の混雑は、観光各社の機動力によるところが大きい。
動員数は多いが多くのツアーでの滞留時間はごく短いものである。

団体ツアーでさらっと「通り過ぎた場所」、「一度行ったことがある場所」ではなく、個人や家族旅行で「滞在したい場所」、「また行きたい場所」にならなくては永く繁栄することは難しい。


隅田川エリアを、3,000万人の観光客を受け入れる京都や、海外の有名都市と肩を並べる観光地にするためには、多くの関係者を巻き込み、大いなる創意工夫がまだまだ必要だろう。

観光客に向け、「箱もの」だけではなく、そのエリアでの「息遣い」が魅力あるものとして、受け取ってもらえるよう、永い歴史と多くの資産を上手に活用して観光都市「隅田、浅草エリア」を実現して欲しいと願う。



2013年8月13日火曜日

世界の遺産は誰のもの?-後世へのバトンの渡し方

8月10日に松山の道後にある宝厳寺が全焼し、所蔵されていた国の指定重要文化財である「木造一遍上人立像」が消失した。

当地は、正岡子規、夏目漱石などが訪れた名刹で、温泉街に暗い影を落としている。
原因ははっきりしていないが、防火設備は十分では無かったようで、何らかの過失によるものだとすると、失った代償としては余りに大きなものとなった。

世界には他にも危機に晒されている人類の宝が多く存在する。
今日は世界的な遺産とは何か、それらを人類がどう扱うべきかについて考えてみたい。

去る4月25日にも、3年目に入ったシリア内戦によって、世界遺産に登録されている北部アレッポの旧市街を象徴するウマイヤド・モスクのミナレット(光の搭)が破壊された。

政府軍と反体制派との激しい攻防の中、考古学上の至宝とされてきたウマイヤド・モスクだが、入り組んだ彫刻が施された列柱は焼け焦げ、多数の弾丸跡、煤の染みなどで覆われてしまっており、預言者ムハンマドの髪の毛が入っていると言われる箱やイスラム教の遺物が略奪された。


また、西アフリカ・マリ北部の世界遺産都市トンブクトゥでも、昨年5月にはアルカイダ系武装組織「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」が、昨年6月にはイスラム過激派組織「アンサル・ディーン」が、それぞれ聖廟を破壊した。

そして2001年3月には、アフガニスタンでのタリバン政権による大仏の破壊が世界中に衝撃を与えた。

人類は何故、後世へ伝えるべき価値のある世界的遺産といわれるものを意図的に破壊するのだろう?

3世紀4世紀も前というならまだしも、21世紀の現代で数百年前と何ら変わらない愚行を繰り返している。
人類は成長していないのだろうか?



実は、破壊という行為でなくとも、リスクは存在する。ややもすると我々自身の何気ないふるまいが脅威になる可能性は十分にある。
例えば、世界遺産の建築物や、芸術品などにいたずら書きをする行為も、本質的には同罪である。
皆さんも観光地を訪れた際に、ご覧なった経験はおありだろう。

書いている本人は軽い気持ちでも、歴史上の重要な宝を私物のように扱ってしまう、倫理観の欠如としか言いようがない行為だ。

触れるような環境にしておくことを問題視するむきもある。
しかし、人類の遺産を近くで見ることは、歴史を学ぶ上でも、人格を形成する目的でも、豊かな感性を磨くためにも必要である。

一部の心無い行為をする輩のために、遺産を鉄格子で囲んで、多くの警備員に囲まれ、遠くからしか見られない状態を人類は望むのだろうか?




日本では、富士山の世界遺産登録に沸いているが、世界には上記の惨劇同様、2012年7月現在で38件の危機にさらされた世界遺産が存在する。

http://www.unesco.or.jp/isan/crisis/list/

世界的な宝をどう扱うべきなのだろう?我々人類は、まだその答えに向き合っていないのかもしれない。



ところで、アメリカでは今まさに、人類の宝をどう扱うかの議論が行われている。
先日、巨額の負債で破産したデトロイト市で、市が所有しているデトロイト美術館(DIA)のコレクションの売却を巡って意見が二分しているのだ。

実は、DIAは全米でも屈指の所蔵を誇る。
ルノアール、ブリューゲル、ゴッホ、ピカソ、ベリーニ、レンブラントなど6万点以上、
総額で1,000億超とも、なかには2,400億円との試算もあり、
市の財産管理を任命されたケビン・オア弁護士は負債総額1兆8千億円を減らすには良い資産と見ている。

しかし、美術品は市の財産であり、市民のためのもの。
従って、売却すべきでないという反対派も少なくない。
この声は市民、DIA職員から全米へひろがりはじめ、美術団体からは非難が続出している状況だ。


もちろん、美術品は金銭で売買されている。これは否定できない事実である。
しかし、これだけ多くのしかも1級品が一度に売却されるケースは極めて稀と言ってよい。

もしも、殆どが個人所有になってしまったら、人類はほぼそれらの名画を見る機会はなくなるだろう。
それで良いのだろうか?

しかし一方で、「市民のための所蔵であって、市の負債のために売却はしない」というコメントもやや違和感を覚えざるを得ない。
一地方都市の住民のものなのだろうか?



勿論、そのような例ばかりではない。
世界的な遺産を守るために、人類が協力して努力を続けている例も存在する。

例えば世界遺産であるイタリアのヴェネツィア。
水の都で有名であるが、その反面、毎年のように浸水被害にあっている。

アクアアルタという高潮の時期は1メートルを超える浸水になる。
特にここ数年は、環境変化の影響もあり、その頻度が高く、大きな被害となっている。

その対応のために、イタリア政府は、旧約聖書でユダヤ人たちを率いて開いて道になった紅海を渡ってエジプトを脱出した預言者モーゼにちなんで、「モーゼ」プロジェクトと名付けられた堤防建設を進めており、3000人の人員と5,600億円の費用を投じ2014年完成を目指している。

ヴェネツィアの住民、観光客、イタリア政府は、人類の宝である水の都を守るため、自らの生活での制約、観光の不便さ、税金の投入をそれぞれが負担して、維持に努めている。


人類史上にその名を残す芸術品、建築物、都市、自然はどれも素晴らしいものばかりだ。
二度と得られないような類まれな光や価値を持つ。

しかし、人類はその価値に気が付かず、破壊という愚考を今でも繰り返している。
世界レベルの遺産と言われるものは、もはや誰のものでもあるまい。
人類が協力して後世へ残すべきものであろう。

そのためには、人類は応分の負担を引き受けなくてはならない。
それが今を生きる我々が、後世へいかにしてバトンを渡すかの責任なのではないだろうか?
お盆休みの時期に、人類の遺産について考えてみるのも悪くない。

2013年8月8日木曜日

麻生氏発言の本質的な問題は?-文脈を見る力を養う

去る7月29日 都内での麻生太郎副総理兼財務相の問題発言が、
本当の問題点は何か?が明らかにならないまま、終息を迎えようとしている。


ご存知のナチスドイツに関する発言である。
ユダヤ人人権団体、中国、韓国、当のドイツからも批判の声が上がり、本人は発言を撤回したが、海外メディアから非難が続いた。

何とも奇妙なことに、冷静にこの事態を検証してみると、非難される側、非難する側の各関係者の誰一人として、事の真相、全体像をつかんでいないのでは?と首を傾げたくなる。


まず、ユダヤ人人権団体は、「ナチスのどんな手法に学べというのか?」「ひそかに民主主義を損なうことか?」との声明を発表した。

次に当のドイツは、「ナチスは合法性を装い、憲法を失効させた」「誰も気づかないで変わったなどということは全くなかった」という趣旨の指摘をしている。

WSJ(Wall Street Journal)では、通常ナチスを引用する場合、否定的に使う。肯定的に使うことは有り得ないし、あった場合政治的な責任問題となる。という趣旨の指摘だ。

中国、韓国はこのタイミングで日本が右傾化を加速させているという趣旨の発言を行い、国内メディアの論調は、発言内容の言及しやすい部分を取り上げて批判を行っているように見受けられる。


そもそも、麻生氏がどのような文脈でナチスという表現を使ったのか?これを明らかにするために、発言そのものを記載してみたい。


(サイトに全文記載がなく、報道ステーション映像より抄訳を記載)
・・・狂騒、狂乱の中で憲法改正を決めて欲しくない。落ち着いて我々を取り巻く環境は何か?状況をよく見た世論の上に成し遂げられるべきだ。
そうしないと間違ったものになりかねない。・・・・・

(憲法改正で)2/3(以上の賛成)の議論があるが、ドイツのヒトラーは、議会によって民主的に選挙で多数を占め、選ばれて出てきた。・・・ワイマール憲法という当時ヨーロッパで最も進んだ憲法の下で選ばれた。
憲法が良くても間違いは有りうる。・・・・・・・

靖国参拝も静かにすべきだ。「静かにやろうや」ということで、ワイマール憲法はいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かない間に変わった。あの手口を学んだらどうか。・・・民主主義を否定するつもりは全くない。喧騒の中で決めないで欲しい・・・・・

概ね以上の内容である。


麻生氏の発言は4つの観点で問題があるように思う。

①ナチスの引用
今回ナチスを引用し、あたかもナチスを賞賛(特に後段)しているように聞こえる文脈で使ってしまったが、国際常識として、国の指導者が引用する事例としてはあまりに配慮に欠けた不適切な例であろう。

②事実誤認
麻生氏のコメントに曖昧な表現があり、咀嚼力が必要ではあるものの、明らかな事実誤認が存在している(ナチス憲法などは存在せず、1933年に全権委任法が成立し、一党独裁を認めるものとなった 等)。

③例示の利用
例示とは、ある表現、内容を解りやすくするために利用するものだが、麻生氏の場合主張したいと思われる内容と、引用がかみ合っておらず、解りにくくなってしまった。(後段が靖国問題にかかるのか、憲法改正かがはっきりしない)

④論理矛盾
そもそも何を訴えているのかが不明。
何を学べと言っているのか、文脈の前後がつながらない。

前段の主張(やや否定的に使っている)と後段(寧ろ肯定的に使っている)は明らかに不整合であり、そもそもの主張が解らない。
(前段の憲法改正と後段の靖国問題が何故か同じ文脈で語られ、一方はやや否定的にワイマール憲法を引用し、他方では手口を真似ろという肯定的文脈で同じワイマールを引用)

一見、前段はナチスを否定しているようであるが、咀嚼すると、
2/3以上の多数決があったとしても、ワイマール憲法下のナチスでは、ヒトラーは多数を占めて憲法を改正した。なので、喧騒の中で変えるのではなく、落ち着いて納得して変えるべき。

という主張だが、その先にあるのは自民党の改正案、96条改正条項の「2/3以上を過半数にする」を支持すべきというところにつながる。
2/3でも十分でないという主張なのに、何故自民の改正案を支持するのか?これも明らかに論理矛盾である。


上記のような内容に対して、ドイツ、ユダヤ人人権団体をはじめとする海外メディアのコメントは彼らの立場、麻生氏の発言内容の質を考えればある程度理解できる。

しかし国内メディアは、「海外のメディアがこう言っている。」「ナチスの引用は良くない」という主張に留まっており、メディアの立場が不明確なのである。


麻生氏の今回も含めた失言の数々は、与党の重責にある人間としては、社会人としての見識、政治家としての資質、与党ナンバー2の資格が問われる問題であり、このような政治家を輩出した我々自身を恥ずべきであり、引き続き我々国民が糾弾すべきものだ。


しかし、メディアの体たらくぶりは見過ごせない。
引用、批判をするなら、海外メディアの批判に便乗したり、些末な表現だけを指摘するのではなく、文脈をおさえ主張内容の何が問題かを明確に問いただすべきだ。

また今回、本当に問題視すべきポイントは、意味の通らない主張を軽々しく行った挙句、何ら脈絡とは関係のないナチスを、事実誤認により利用してしまったことだと思う。

しかし、その本質を正面から指摘した国内メディアは残念ながら、まだ確認できていない。

更には、発言撤回を発表した際に、「ナチスに対して極めて否定的であることは明らかだ」
というコメントを行った彼に関し、国内メディアから何ら指摘が見られないのは残念の極みである。
寧ろ国内メディアはトーンダウンしてしまった。

言い逃れが出来てしまうのは、国内メディア側の主張、質問力に問題があると思う。
この曖昧さを排除するためには、

自らの立場を明確にすること。加えて発言の文意、文脈をおさえることだ。
海外メディアから見られても恥ずかしくない、良識ある、緊張感を持った真に価値ある報道を切に望みたい。