2013年7月29日月曜日

スペイン列車事故を考える-鉄道が目指すべき姿とは?

楽しいはずの列車の旅が、一瞬にして大惨事と化したスペイン北西部サンティアゴ・デ・コンポステラの高速鉄道の脱線事故。
現地時間25日現在で、被害者数は、死者80名 負傷者178名に上った。

「聖ヤコブの日」の祝祭を控えてにぎわい始めた聖地を襲った、最悪のニュースとなった。

日本のメディアでも、監視カメラの映像による、制限速度80キロの場所をおよそ190キロで疾走する列車が脱線する瞬間を捉えた映像が繰り返し放映され、事故の凄まじさが脳裏に焼付く。

直接的な原因は、スピードの出し過ぎによるものと思われるが、何故このような事故が起こったのか?というと、別の顔が見えて来る。

スペイン国鉄の高速鉄道では、延着の際料金の払い戻し制度がある。
16分から30分では50%、30分を超えた場合100%を返却するというもので、当然ながら乗務員は、延着を避けようと、遅れれば速度を上げることになる。

事故を起こした車両も、事故現場付近でおよそ5分、正規のダイヤよりも遅れていたそうで、事故現場付近では、今回に限らず制限速度を超えることが半ば恒常化していたという証言もあるようだ。


ここで、「ん?どこかで聞いた話ではないか?」と感じるのは私だけであるまい。
そう、日本でもJR西日本の福知山線の脱線事故が同じ構図であった。

2005年4月25日の朝のラッシュ時に兵庫県尼崎市で起きた列車事故は、死者107名、負傷者562名を出す未曾有の大事故であった。

事故後の調査で明らかになったことは、教訓に満ちていた。
当時 JR西日本は当該路線において、私鉄競合他社と乗客を奪い合う熾烈な戦いを強いられており、スピードアップによる所要時間短縮、運転本数増加が求められていた。
厳しい社内規約、遅れに対する乗務員への罰則、余裕のないダイヤでの運行などという 決して良いとはいえない社内環境が明るみに出た。

起こるべくして起こった事故と言っても過言ではあるまい。


そして今回スペインで、図らずも日本と同じような構図の悲惨な事故が起こってしまった。



高速化は、世界中の鉄道業界の命題となっている。
今やヨーロッパ各国、アジア各国においても凌ぎを削る競争が起きており、そんな中、2011年7月の中国鉄道での衝突脱線事故も記憶に新しい。
いったい鉄道会社はどこへ向かっているのであろう?


一方で、今回のニュースに接して思い出したのが、スイスを旅した時のことである。
スイスの鉄道は、とても時間に正確で、清潔、安全性も高く、そして乗客への親切さが心に残る。

このスイス鉄道、他のヨーロッパの鉄道とは異なった意味の高速化を選択した。
このことを少し検証してみたい。

スイス鉄道は、九州より少し小さい国土に総延長距離5,380㎞が敷設され、国内の路線密度は世界一である。スイスは観光立国であり、国民だけでなく、多くの旅行者が鉄道を利用する。

国土の2/3が山岳地帯で、1000m進むと標高が480m上がるという急こう配や、標高3,454mという世界一の標高のユングフラウヨッホ駅などがあり、景色も素晴らしいが、鉄道を敷設する場所としては難所も多い土地柄だ。


上記のような環境のため、高速化といってもいわゆる高速鉄道の敷設ではなく、在来線の改良による高速化を選択したのである。

複線化、路線増設、路線間を結ぶ短絡線の建設などで乗り換えの利便性を向上させることで、路線網全体で所要時間を短縮する高速化を目指した。

山岳地帯ということもあり、大きな荷物の旅行者が多いため、旅荷を目的地まで別送するシステムを設けたり、見やすい表示、わかりやすいガイダンスなどを充実させることで、旅行者に優しい鉄道を実現している。

これは、Rail2000(ドイツ語でBahn2000)プロジェクトという、スイス鉄道全体の改善計画によるものだ。

この結果、時間は短縮されても、サービスの質は低下しない、利用者の利便性を考慮した定刻通りで且つ殆ど車内で立つことがない、素晴らしい運行を可能にしている。



翻って我が国の昨今の特に都心部での鉄道の状況を改めて見てみると、毎日のように乗客同士のもめごと、痴漢、線路内立ち入りなどのトラブルが発生している。
人身事故などの影響も合わせると、都心部ではほぼ毎日、どこかしらでダイヤが乱れている状況だ。

そもそも考えなくてはならないことは、鉄道は公共交通機関であるということだ。
つまり、運行する側だけの努力では改善は難しいのも実情だ。

ラッシュ時を避ける通勤、無理な乗車をしない、車内のマナーを守るなど、乗客にも出来ることは多くある。

先日、列車に挟まった乗客を40名近い他の乗客が駅員と協働して救助するという出来事があり、海外メディアに賞賛された。

このように利用する側も、「自分も環境をつくる構成員なのだ」という意識や品格を持つことで、鉄道の利用しやすさを向上させる一助は十分に担える。

そして、鉄道各社も単にスピードだけに着目するのではなく、心地よさ、快適さを追求する姿勢があっても良いのではないだろうか?

外国の方にとって、わかりやすい、利用しやすい駅なのか?
お年寄りや体の不自由な方に優しい設備は整っているのか?
乗換が解りにくい、遠い、渋滞して歩けないなどの不具合がないか?
などなど、スピード以外でも向上すべき内容は沢山あるのではないのか?

寧ろ、上記の問題をそのままに、単にスピードを上げてもトータルの所要時間は変わらない、若しくはほんの少しのトラブルでも起きれば、大きく遅れることすら十分に起こり得るのである。

何よりも、安全は鉄道にとって最も大切な目標である。
スピードが優先され大事故を誘発するなどということは、あってはならない。

鉄道各社も、そして利用する我々も、安全性を無視した劣悪な通勤環境でも1分を争い、会社に着くころにはくたくたな状態に甘んじるのではなく、余裕をもった通勤を快適に行えるように、1人1人が心掛けることを目指したいものである。

2013年7月24日水曜日

票の価値を考える-自民は本当に圧勝なのか?(参院選)

7月21日の参議院選挙は、自公連立の圧勝に終わった。
今回の改選議席は121だったが、与党は、うち76議席(全体の63%)を獲得し、野党の45議席を大幅に上回った。

しかし、これ程の差が着くほどの投票結果だったのだろうか?

実は、妻が、
「私の周りに誰1人として、与党に投票した人がいないのにおかしい」と言い出したことがきっかけで、少し調べてみた。

まず、比例区の得票数。
総数は、約5千3百万票(53,229,612)だ。
このうち、与党の得票数は、合計で約2千6百万票。
これは、総数の48.9%である。

次に、各選挙区の合計を…と思ったのだが、どこを探しても数字が存在しない。
そこで、東京選挙区を例に使ってみると、投票総数が約5百64万票(5,637,806)であり、
5人の当選枠のうち、1位と5位の自民党、2位の公明党の3名が与党である。

獲得票をみてみると、1位がおよそ100万票、2位がざっくり80万票、5位が約61万票であった。
つまり、3名の合計はおよそ247万票(2,474,859)で総数の44%である。

比例区は63%の議席を48,9%の票で獲得していることになる。
そして、東京選挙区も全く同じような比率で、全体の60%の議席を44%の票で獲得している。

与党と野党、という形で分けてみるならば、与党は全体の過半数の票も獲得していないのだ。
それでも、獲得議席は6割を超え、「圧勝」という見出しが紙面をにぎわす。


また、更に別の角度からみると、今回の投票率は52,65%だった。
乱暴な計算だが、この投票率を比例区に当てはめてみる。
与党は有権者全体の25,75%の票数で、63%の議席を獲得し、
東京では23,2%の支持で60%の議席を獲得したわけである。

実際の数字は多少かわるであろうが、概ね上記の比率である。


このような状態で本当に民意は反映されたことになるのか?
安倍政権の進め方にGoサインが出たのだろうか?


今回、あまりにも政党が乱立してしまい、反自民の票が分裂してしまった。

もちろん、選挙に死票はつきものだ。
しかし、絶対数でみた場合、過半数が与党を支持していないにも関わらず、6割以上の議席を獲得した事に違和感を感じるのは小生だけであろうか?

政党側も、少しの違いを際立たせるのではなく、民意をくみ取った日本全体の政治を大局的に判断した連携を模索するべきではなかっただろうか?



あるラジオ番組で、場所は聞けなかったが、どこかの商店街で選挙前に行われた取組みについて、取り上げていた内容に驚いた。

期日前投票をしてきた人、当日投票を行った人が、それを証明できれば、割引の特典が受けられるというセールを企画しているという、ニュースだった。

しかしこの企画、反対者からの抗議で中止になったのだそうだ。

その抗議の内容とは、何と、このセールで投票率が上がった場合、浮動票が増えるため、組織票(特定の支持基盤)で固めている政党に不利になるというものであった。

正直、空いた口が塞がらなかった。
このような理屈になっていない無理を押し通すことが、堂々とまかり通る時代なのか?と思い、
残念な気持ちになった。


浮動票とは、特定の政党を支持しない票であるから、どの党に投票するかの確率は平等で、反対者が主張している不利になる政党は存在しないし、反対する理由は全く妥当性を欠いている。

また、投票率を上げることが、より民意を反映する選挙になるのは当然のことで、反対すること自体ナンセンスだと思う。低い投票率を意図的にコントロールするのであれば選挙そのものの否定であり、民主国家ではないことになってしまう。


このままでは3年間国政選挙は行われない。
その間、消費税、TPP、憲法改正、国防軍の議論、集団的自衛権の行使、領土問題、普天間移設、原発再稼働など国の将来を二分するような大きな意思決定が数多くなされることであろう。

国民自らが選択した政治である。

これから我々に出来る事は、国民一人一人が無責任でいることをやめ、自らの国、政治に興味を持ち、責任を持ってしっかり監視し、参加することだ。

自らの1票を無駄にしないために。



2013年7月20日土曜日

複眼を持つ-51歳になって思うこと

今日、今年2度目のブルーベリー狩りに行ってきた。
自宅にも8本分の鉢があるのだが、育てる方はどうも下手くそで、収穫は大してない。

これまであまり気にしたことは無かったのだが、今日ブルーベリー狩りで思ったことは、見るポジションによって、実が見える角度が異なるということだ。

当たり前と言えば当たり前の話だが、思った以上に違う。

以前はただ無心に、「大きい実を、出来るだけ沢山」という、子供とほぼ同じ発想で、とにかく一番実がなっている木を探し、ひたすら採ってある程度表面が終わると、次の木という狩り方だった。


今日は、少し行く時間が遅くなり、午後になってからの訪問だったため、他のお客さんがある程度採られた後だったこともあり、パッと見て、「あれ?あまりない」という景色に見えた。

それでも、せっかく訪問したので、採り始めると、たくさんなっている枝が、少し奥まったところ、表側に見える枝に隠れて見えないところに点々と存在することに気が付いた。

また、更に進めていると、もっと多く存在することを知ることになる。

ブルーベリー農園に行かれた経験はおありでしょうか?


殆どの場合、列になって木が配置されており、両サイドから実を採ることが出来る。

片側から実を採っている時には全く気が付かないが、反対にまわると多くの実が隠れていることもしばしばで、真剣に探しているつもりでも実は、限られた場所しかみていないことを思い知る。



私は、仕事でトレーニングの講師を務める際、しばしば「複眼」という表現を使う。トンボなど昆虫の目が複眼で、ハチの巣のように多くのレンズ集合体が目になっているものだ。

ハエが2000個、ホタル2500個、トンボはなんと2万もの目を持っているようだ。
それぞれが位置と角度が微妙に異なることから、図形を認識できる仕組みである。

この複眼の仕組みを引用して、例えば、顧客分析などをする際に、単眼で顧客を決めつけてしまうのではなく、様々な観点から見つめることで、その顧客像がはじめて立体的になる、というようなメッセージを伝えている。


私事で恐縮ではあるが、本日は、小生の誕生日だった。
ちょっと人生を振り返ってみると、実は人生として単眼になってしまい、見過ごしてしまったこと、気づかなかったことが山ほどあったのだろうと考えさせられた。

ブルーベリー狩りでも、1本の木をある程度しっかり見て狩る方が、表面的に沢山なっていそうなものを次々に狩るよりも結果的には収穫が多い。

これまで新しいことばかりを追求してきた人生のような気がする。
51歳の今日、己の人生で、大切だが忘れてしまったこと、本来行っていなくてはいけない仕掛かり事、不義理で会えない方々、やり残したことがないか、しっかり振り返ってみたいと思う。

実は、たくさんの教えがあるような気がしてならない。

今年1年の抱負は複眼をもって丁寧に生きてみようと思う。

2013年7月18日木曜日

制約の効用-加賀友禅を訪ねて

先日、金沢を訪問し、加賀友禅の工房や作品に触れる機会があった。最近、妻の趣味が高じて日本の伝統産業、特にきものの里を見学しているからだ。

毎回、たくさんの気づきや学びがある。今回の気づきは制約条件の持つ効用で、簡単に紹介してみたいと思う。

そもそも友禅染めとは、元禄時代に扇絵師の宮崎友禅斎によって確立された染色技法で、京友禅が最も著名だが、加賀友禅も負けずに素晴らしい。

両者は、同じ友禅だが少し違いがある。加賀友禅の方が、使える色の数、描く図柄などに制約、すなわち、「縛り」が多く、京友禅の方が自由度が高い。

しかし、加賀はその縛りを設けることで、独特の風合いを持ち、更には加賀友禅への思い入れ=プライドを醸成しているように感じた。


工房見学の際、友禅作家が出演した番組のビデオが流されており、何気なく見てみると冬に桜の木をスケッチしている場面だった。

もちろん、花など咲いている筈はなく、きものの図柄を描いているのではない。
なぜ冬の桜の木なのか?

作家曰く「冬場でないと枝振りが解らない。開花の時期は花で覆われており、木は殆どわからない。だから、今の季節に木を知っておく必要がある」

加賀友禅は、写実性を重んじる。「図は工房で机の上で書くものにあらず、外へ出て自然とふれあい描写すべし」が加賀の真骨頂である。

故に、図柄がかなりリアルに表現され、京友禅には決してない、虫食いの葉が描かれたりするのはこのためだ。

写実性を重視するからこそ、冬場に桜の枝をしっかりと見てスケッチしておく。
枝振りをしっているからこそ、花の時期でもその下にある枝をイメージしながら真の写実が出来る。



同様に、色も加賀五彩と言われる5色が基本(藍、臙脂=えんじ、黄土、草、古代紫)で、それを調合することで、何十種類もの色を作り出している。

加賀五彩は色も決して鮮やかでなく、落ち着いた風合いだ。
作家曰く「冬の金沢は、曇天が続き鮮やかすぎる色は合わない。」

このような気候風土だからこそ、落ち着いた色合いでも飛び切り魅力的に引き出す技法が発達した。

ぼかし、グラデーション、それらを美しく発色させるための絶妙なスピードコントロールによる友禅流しなどである。


曇天、加賀五彩、写実性は加賀友禅の制約条件である。
この制約を乗り越えるために、人は創造しアイディアが生まれる。

京友禅とて、制約は多く存在する。
そもそも21世紀にきものという文化、つくるための手間、コスト、保管などがそれで、特に女性物は着付けにも時間がかかる。

そんな制約を乗り越えるために、様々な発明、アイディアが生まれ続けているのである。

金沢は更に制約を課し、武家の文化である、質実剛健の気風を活かした作風を守ることで、そこに暮らす人々に加賀人としてのプライドまで培っているのだと感じた。



日本には嘗て、もっと多くの「きもの」の産地が存在した。しかし、環境の変化に適応できず終焉を迎えたものは少なくない。

そんな中で加賀では、創意工夫を繰り返し、加賀の住人もその文化を愛し、親が子に巣立つ日に持たせる習慣が、今でも脈々と引き継がれている。

翻って、我々都会の住人はこれが無いからできない、この制約はフェアじゃない、このような非効率なものはすべきでない、などなどとすぐに不足を嘆く。

しかし、100%充足された環境など有り得ない。

寧ろ、逆境だからこそ、誰も考え付かない発想が出来る。必要は発明の母と割り切って、制約を楽しみ、創造力で乗り切る気概を持ちたいものだ。





2013年7月12日金曜日

Common Sense(良識)を持つ-福島第一原発の吉田前所長を偲んで

東京電力、福島第一原子力発電所前所長、吉田昌郎氏が死去された。
食道癌、58歳の若さであった。
氏のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

ニュース番組では当時のビデオが流され、改めて吉田前所長の良識ある判断が無かったら、東日本がどうなっていたか?と想像すると、恐ろしい思いで溢れる。

その判断とは、本店からの原発への「海水注入を中止せよ」という指示を無視することだった。

読者の皆さんには釈迦に説法だが、あの状況下での吉田さんの判断は、今振り返っても素晴らしい英断だったと思う。


机上の空論という言葉が思い浮かぶ。

「海水をかけると原発が使えなくなるため、真水が到着するまで海水注入を待て」
という本店の机上の判断に対して、

吉田前所長は、目の前で爆発を目撃している現場の肌感覚として、注入を止めればチェルノブイリの10倍以上の大災害になると予想し、本店命令を無視して海水注入を続けた。

多くの専門家の分析では、あの判断がなければ、日本は北海道、西日本、九州と人の住めない東日本になっていた可能性が高いとの見解だ。


吉田前所長は、本当に「日本を救った恩人」であり、まさに「英雄」である。

その素晴らしい功績に対して東電は今回、癌の進行と被ばくは無関係との見解を発表。
曰く、吉田氏の被ばく量が70ミリシーベルトで、癌の進行を早める直接的な因果関係は認められないという主張である。

有体に言えば、「会社は関係ない」という意味であろう。



一方、つい先日南三陸町役場の危機管理課職員、遠藤未希さん(天使の声)ら33に対する、特殊公務災害の申請が却下(32名+未定1)された。

特殊公務災害とは以下の要件を満たした場合、傷病補償年金、障害補償又は遺族補償について特殊の加算措置を講じるシステムである。(以下、抜粋)

特殊公務災害の要件
特殊公務災害補償の対象となる職員は、警察官、警察官以外の警察職員、消防吏員(常勤の消防団員を含む。)、麻薬取締員及び災害対策基本法第50条第1項第1号から第3号までに掲げる事項に係る災害応急対策に職務として従事する職員。
(今回の南三陸町の危機管理課の皆さんの行為は該当します)

特殊公務災害は、これらの職員がその生命又は身体に高度の危険が予測される状況の下において、犯罪の捜査、火災の鎮圧その他政令で定める職務に従事し、そのために公務上の災害を受けたときに該当する。


天使の声は、最後まで、津波を避けるため逃げ惑う市民に高台への非難を呼びかけ続けて、自らの命を落としてしまった。

却下の理由は、放送していた場所は避難場所に指定されており、上記要件の「高度の危険が予測される」場所とは想定できなかった。というものだ。

しかし、実際に彼女が呼びかけた避難先は、その「危険とは想定できない庁舎」ではなく、もっと高台である。

理由は、6メートル以上の津波が予想され、庁舎では間に合わないことがわかったからである。

彼女たちの咄嗟の決断は、自らの危険を承知しながらも、最後まで放送を続けるというものであった。

この結果、町民の半数近くが難を逃れることが出来、多くの人が「あの女性の声が無かったら助からなかった」とコメントしている。


特殊公務災害基金も、東電も規則だから、基準に該当しないから、というのが言い分である。
あえて申し上げたい、それが一体何だというのか?規則は何のために存在するのであろう?

もともと、特殊公務災害は浅間山荘事件で、殉職した警官に何か報いる手立ては無いか?ということで作られたものである。

その設立の趣旨に今回の「役場の皆さんの貢献が該当しない」と、本気で考えているのだろうか?

判断した担当者が、厳密に該当しないものを適用したことを責められないための保身なのではないか?と疑いたくなるような杓子定規な決定だと感じる。

南三陸町の職員の皆さんも、吉田前所長も、自らの命を賭して市民を、国民を救ったのである。

私は、このような勇気ある人々を称えることに、何を恥じることがあるのか理解に苦しまずにはいられない。

補償金を出すか否かを問うているのではなく、何故、これだけの行為をした人達に感謝の意を表することを躊躇するのか?を問いたい。

ルールが無ければ作れば良い。良識として、彼らに報いなくて誰に報いるというのだろう。

もうそろそろ、官僚や役人、世間ずれした一部のエリート意識の人々には目覚めて欲しい。我々は現実を生きている。Common Senseとして彼らの勇気をほんの少し真似て、堂々と何らかの方法で報いて差し上げて欲しい。


今後、第二第三の英雄が自信を持って行動出来る国にするために。

2013年7月7日日曜日

設問する力-ニホンウナギ減少を受けて

ニホンウナギが無くなる?

土用(2013年入りが19日、丑の日は22日)を目前にして、うなぎの漁獲高減少が止まらない。

どのくらい危ないのか?
それを論じるためには、まず、ニホンウナギの生態について、簡単に知っておくことが必要だと思う。

近年まで殆ど謎だったようだが、最近になりかなりわかってきているそうだ。マリアナ諸島の西側辺り及びグアム島近辺などが産卵場所で、水深約200メートル。

孵化し仔魚(幼魚)になり、その後変態を行い、5センチ程度の「シラスウナギ」になる。
そのまま黒潮にのって生息域の東南アジア沿岸の川を遡り、成熟した後産卵場へ戻る。 

これが、ウナギのライフサイクルのようだ。


現在、国内消費の殆どは、このシラスウナギ漁で捕獲したウナギを中国や、国内数か所で養殖したもので、いわゆる天然のウナギは、国内養殖の1.5%程度。輸入うなぎの消費量も合わせると、0.3%にしかならないという。

その養殖ですら、日本でのシラスウナギの減少は激しい。
1960年近辺がピークで当時およそ230トンあった漁獲高が、
昨年は10トンを切る状況で、2013年は更に深刻化し、5トン強まで落ち込んでいる。ピーク時と比較すると、約140の量だ。


危ないことはご理解頂けたと思う。
しかし、一体何が原因なのか?データだけではさっぱりわからない。

ニュース番組で多くの報道がなされているが、ひたすら、「ウナギが食卓から消える」という類の「演出」ばかりが繰り返され、
減少の原因や、どのような方向で考えるべきか?今、行えることは?など、未来に向けた議論は起こっていないように思える。

番組でよく見かける街頭インタビューのシーン。
ここでも、インタビュアーの問いかけは、不安を煽るにとどまり、従って、回答する人々も「困る」、「頑張って食べる」、「もう閉店するしかない」というトーンである。


この現象、一体どこに問題があるのか?

私は、それは「設問の仕方」にあると考えている。
正しい答えを導けと言っているのではなく、正しい方向で議論すべきだと思うのだ。


専門家に対する設問であれば、専門家しか知りえない示唆、誤解しやすい情報の読み方、本当の意味の漁獲量の危険水域など、考えるべきヒントを回答してもらえるようなポイントを。

街頭のインタビューであれば、インタビューする側が、予め回答者に全体像を伝えたうえで、食する側として出来ることについてを、うなぎ専門店であれば、提供する側としてどのような活動が必要か?または、食する人、養殖する人、漁を行う人、あるいは国、地域に向かって、どのようなメッセージを発信できるかなどのポイント。

メディアは、上記それぞれの観点で、これからの方向性を考え始められるような設問をすることができる筈だ。


ウナギに関して言えば、調査はこれからで、原因が何か?については特定に至っていない。しかし、生態がある程度判明してきており、正しい方向での「設問」はおける。

産卵の数に問題があるのか?仔魚になる数か?シラスウナギになれない理由なのか?シラスウナギの回遊に問題があるのか?東南アジア沿岸地域の環境か?漁場の問題か?産卵に向かう戻りの過程に問題があるのか?

ざっとみても、いくつものポイントは浮かんでくる。専門家であれば更に細分化も、絞り込みも可能であろう。


これと同じような議論に、原発問題があると考えている。今の議論は、再稼働か廃炉か?の二極化の様相だ。

しかし、その前に、この事故の全体像は解っているのか?建設自体に問題があったのか、運用か、あるいは事後の対応なのか、私の理解では何も明確にはなっていないと思う。


設問の仕方とすれば、どこに問題があり、どうすれば防げたのか、今後終息に向け何を行えば良いのか、いつまでに安全に鎮静化するのか?

これが解らないまま、再稼働は言うまでもないが、輸出の拡大、あるいは他原発の全廃の議論は、あまりに早計と言わざるを得ない。

仮に廃炉しても、国内に2万トン以上保有しているとも言われる放射性廃棄物の処理の問題、再処理工場の対応、その他どのようなリスクや危険が存在するのか、全廃に向けた処理のプロセスなど全てが明らかになっているとは思えない。


全体像が解れば、国民一人一人も、自ずと自律的に何をすれば良いのか?は解る。1億人が解って行動すれば、必ず解決できる筈だ。

東電、政府は情報を隠すことに力を使うのではなく、いかにして正しい情報を開示すべきか、それによってどう解決するかに尽力して欲しい。


今年の土用の丑の日、どんな気持ちで迎えられるのか?七夕の今日、正しい設問で自問自答してみてはいかが?



2013年7月2日火曜日

内向きから外向きへ-不易流行の思想

先日、OECD(経済協力開発機構)が「図表でみる教育2013」を公表した。

その中で、大学などの高等教育機関に在籍する学生のうち、
海外で学ぶ日本人留学生の割合が加盟34か国中2番目に低い1.0%であることが明らかになった。(2011年実績)

因みに1位はアイスランドの18.9%で、最下位34位は0.3%の米国である。

他国と比較して水準が低い、というだけではない。
海外で学ぶ日本人留学生数のピークは、2005年の62,853人だったが、2011年の実績では38,535人だ。
ほぼ半減しているのだ。

その理由について、OECDは、海外に出るリスクへの恐れと分析している。


分析の真偽はともかく、今回の留学生減少に加え、昨今の憲法改正や靖国問題、安倍首相の様々な発言に対する「右傾化」論議などをみていると、少なからぬ人々が、世界を観ているというよりは、日本国内に焦点が当たる、内向き志向になりつつあるのでは?と疑いをもつのは私だけだろうか。


上記のような観点も踏まえると、これまでの数十年と比べ、最近の日本は明らかに変化している。その変化に少し不安定な雰囲気を感じ、ひとつの言葉を思い出した。

「不易流行」という言葉だ。

私はこの言葉が好きで、たまに引用する。
俳人松尾芭蕉が提唱したとされる言葉だ。

意味は、「不易」が変わらないこと、つまり原理原則のような位置づけで、
一方「流行」とは、絶えず新しさを追求すること。

一見矛盾するようだが、その意味するところは、本質を変えないために、常に新しさを追求し変化していくという概念である。

今の日本は不易なのか?と考えると、本質が見失われて、流行ばかりが先にたっているように感じる今日この頃だ。



しかしこの概念、実は様々な分野において上手に活用されている。

例えば日本の伝統産業でも、現在も伝統を受け継いで力強く生産を続けている産地は、この考え方を実践していることがわかる。

例えば、有田焼。
1992年をピークに売上が半減していたところ、空間デザイナーや、海外の有名デザイナーなどともコラボレーションを行ったり、いくつもの窯元同志がデザインを共有した製品をつくったりと、400年の歴史上初めての挑戦をし続けて、復活に向け邁進している。

南部鉄器も、フィンランドのデザイナーと組んで、ヨーロッパに合ったデザインの南部鉄器を開発し、実際に、現地のホテル、レストラン、家庭でも活用され始めている。

京都、博多のきもの産業も、伝統を守りつつも、製造工程の見直しを常に行い、現代のニーズに合わせた製品開発を行い続けている。


全てに共通することは、お客様目線に立ち、使ってもらえるお客様のニーズをしっかり理解し、伝統を守りつつも新たな概念、技術を積極的に取り入れ改革を行っていることだ。

歴史ある伝統技術、名前に奢ることなく常に挑戦し続けることで、寧ろ新たな発明、発見、革新を成し遂げ、消費者に進化した伝統品を提供してくれている。


お客様目線にたつ。
簡単なようでいて難しい。

その実現に不可欠な要素は、常に外に目を、耳を向けること。
広くアンテナを張リめぐらし、人に関心を持ってどのような情報でも逃げずに受け止め、
お客様になったつもりで考え続けることだ。

内向きの観点からは、変革は起こらない。
守るべき伝統と、変えるべきこだわりや偏見を見極めること。その目を持つこと。
それには常に新しい情報や人に触れる外向きの志向が必要だ。



改めて日本人留学生問題を考えてみよう。
34位のアメリカは別格とすれば事実上最下位だ。

しかし日本は貿易立国である。
各企業は、今後益々海外とのやりとりを積極的に行える、真の意味でのグローバル人材を求めている。

しかるに、留学生が半減しているのは明らかにその流れに逆行している。
単に目に見えない漠然とした「リスクへの恐れ」という理由で、内向きになってしまっているとしたら、これは余りにも大きな機会損失だ。

留学だけが解ではない。
しかし、留学は単に学問を学ぶだけの機会ではない。
海外を知る、他の国の友人を持つ、海外から日本を見る、日本を知ってもらうという意味において、新しい情報交換の宝庫である。

学生だけではなく、私自身も含め、今の日本人に必要なことは、日本のアイデンティティを持った上で、あらゆる機会、新鮮な情報に対してもっと貪欲になること。
そして、大きな視点で物事を考える機会を増やすことで、「グローバルな日本人」に進化し続けることではないだろうか。